雑記

好きなものに対して愚直になぜ好きなのか、どこが好きなのか考えることが楽しいと思う。
昨日妹に推し本という言葉に違和感があるといったツイートの話をされた。

最近好きだった俳優を見たり、そのファンの人とたちを見ても心が踊らなくなってしまった。それよりも目に見えてキラキラしたアイドルに目を奪われるようになった。
一つにそれは、私はこの作品を知っているんだという見下されたような雰囲気をツイートの中に感じてしまったり、私はオタクだからこんなことまで考えているんだという強気な姿勢に引いてしまったからかもしれない。
それが好きという気持ちがただひたすらそれに向かっているというよりは、好きなものへの気持ちが第三者に向いているような気がしてならなかったからかもしれないなと妹の話を聞いて思った。

好きなものを語るときには、誰々のこの表情がよかったとか、あのシーンのこの仕草が可愛くて好きとい語り方よりも、この行動の裏にはどのような背景や気持ちがあってそれを引き起こしたのかとか、私がいまいいと感じているのはどういう経緯からそうした気持ちが起こってくるのかとかそういうことを言葉にして自分の中でそれを確固とした気持ちとして留めておきたいと思う。
私が多分求めているのは、世の中の変わらない心理なんだと思う。
移り変わってしまう流行りやかっこよさや可愛さを求めているのではなく、変わらない人間本来としてのかっこよさが知りたいし、そういう人間になりたいからこそ、自分の中の核となるものを見つけたいと思っているんだと思う。

だから、いつかは変わってしまう人の見てくれを褒めるよりも何をどう考えてどのように生きて生きたいと思っているのかということについて知りたいし、その姿勢に対して自分の言葉でなぜその考え方が好きだと思ったのかをいつ見返してもわかるような言葉にして残しておきたい。

私がそれを好きになったきっかけは、それに何かしらで救われたという思いがあったからだと思う。もっと救われたくて必死になって追いかけたのだと思う。
だけど最近はそれが私のアイデンティティを構築するファッションみたいになっていたかもしれない。
それを好きな私、それがいいと思っているセンスのある私みたいな。
今思えばその自分がきもいし痛い。
もっと好きなものに対して純粋でありたいなと思った。

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