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虚構の世界の真ん中で。

ジリ貧な状況が気づきと前向きな行動を促す

経済的精神的に余裕がある内には分からないことがあるなと思う。
実家暮らしで大した金も家に入れず甘えさせてくれる状況に甘んじ、悶々としながらも流されて何もできずにくすぶっていた頃の事を考えると、私は放り出されて絶望したからよかった。本当の意味で逃げ場を失ったときに、人は強くなれるチャンスを与えられるんだと思う。

私は父が精神を病んで経済苦になってから、色々考えて自分自身苦悩した。
父の事も家族の事も自分の事も、向き合い考え尽くし、家族とも本音でぶつかりあい心を真に通わせるきっかけになった。
だからコロナの嘘に、世界の虚構に気付いていけたんだと思う。

私だってお花畑でまどろんで居られるのならそのほうが幸せだと思う。
どうせ最後はみんな死ぬ。何にも気付かないままなら、ゆっくり殺されて痛みも少なかろうと思うのだ。

しかし私は元からお花畑とは程遠い場所で生きてきた。
地元に友達はいないし、高校も二度中退し、仕事も転々とした。私とはことごとく合わない世界だった。家族も基本的には私の発言をやや煙たい感じにあしらう事が多い。要は所謂「面倒くさい」人間なのだ。
(こんな構図を作り上げて、私のように端っこに追いやられる人間を作ったのも、私や周りの人間じゃなくもっと真相の部分に存在する奴らなのだと知れば、少し楽な気持ちで自分の人生を俯瞰することができる)

でもだから良かったんだと思う。
社会的に「正しい」社交性を身に着けていて、ちゃんと「友達」もいて、「きちんと」高校なり大学を出て、それなりの仕事についてそれなりの暮らしをし、常識の範囲内を模倣していれば、安心安全な暮らしは保障されますよと散々言われて信じ込まされてきたのだから。そうしてきた人が、それまで培い守ってきた固定観念を拭う事の抵抗感はどれほどのものだろう。

私は自らそれを破り続けてきた。それ故の痛みや苦しみ、情けなさやどん底も味わったけれど、そのおかげで内省する癖がついた。
もちろん根が後ろ向きネガティブのインドアタイプであるため、前向きに転換していくには時間を要したけれど。思考することを奪われることは無かった。


心の目を閉じてお花畑にいる事をまだ許している、愛の目で見て。

とはいえ、正直言ってまだ私はお花畑の中に片足を突っ込んでる状態と言える。
真実を知ったからと言って私ひとりに何ができるのかと思っている節も少なからずあるし、雇われの仕事を辞める事がいつまで経っても出来ない腑抜けである。
その上で恋愛に現を抜かそうと望む自分もいて、それを妨害していると感じる誰々の事を憎々しく思ってしまうという、醜い人間の性を露呈する私もいるからだ。

でもいい加減に気づかないといけない。そういう思考自体が、私の物ではないかもしれないことに。誰かが意図した策略の中の一つに、まんまとハマってしまっているだけかもしれない事に。

本当の私はそこにはいない。

だって、本当はその憎々しい誰かの事を「この子の事、好きだなぁ」と純粋に思う自分がいる。楽しく笑い合い、時間や目の前の空間や経験を共有できたらそれでいいのになって。

本来の私ではない虚構の自分が想い慕っているその相手に対して望むものは「私を愛して欲しい」「私を受け入れて認めて欲しい」という深層心理に尽きる。もちろん正しくはそれだけではない、直感的に惹かれている部分があるのも確かな事実である。とても大好きだ、そう素直に言える。

それなのにその誰々が、虚構の相手と親しい現実におもくそに妬いているくだらない私がいるのだ。憎々しく思うその嫉妬の感情はなんと無駄の多い、哀れな感情だろうと思う。

何故なら愛とは、そんなに脆く儚く攻撃的なものではないはずだからだ。愛とはもっと大らかで優しく、包み込むように広い心で、でんと構えているような、そんな温かくて幸せなものだと思う。私は愛の人になりたい。今の私は、全く愛を語れる人間ではないのだ。


正反対のものを並べて悪か正義かを選ばせる、二元論の世界

愛憎、という言葉があるように、愛と憎しみはセットなのかもしれない。でもそれだってそう思わされている事はないだろうか。人々がそう思っていたほうが都合がいい人間がいるんじゃないんだろうか。
つまり、平和と戦争、のような対義の状況や感情について、それを煽って増幅させていく事で、利益を得る輩がいるんじゃないかという事にすべて繋がっていく。正義という名のもとに、正当化される見えない「悪」に気付かないといけない。

ここでいう憎々しさは、正直「悪」だ。恋しているからと言って、嫉妬することは当たり前だ、愛しているんだからと正当化して、楽しくともに生きる機会を、幸せをみすみす逃す事のどうしようもなさや下らなさを思えば、一目瞭然だと思うのである。

しかしそれと同時に、さて、前述したような「楽しくともに生きる事」だとか「愛の人になること」が果たして正しいのかどうか、それが幸せなのかというところも、考えておかないとならない。

どちらかが「悪」でどちらかが「正義」だとする考え方に偏り過ぎることは、結局テレビを見て鵜呑みにして流され続けるお花畑の中で暮らす人々と何ら変わらないからだ。

そしてそうはいっても二分化されやすいこの世界においては、目の前の事象が一体誰にとっての悪なのか、正義なのか、そしてそれは何故なのか、という事も考えられるようにしておきたいなと思う。そしてさらに、その正反対の二元論だけではなく、あらゆる角度からの見え方が、考え方が出来るという可能性についても知っておくことだ。

さて少し脱線したような気がする。
私にとって楽しくともに生きるだとか、よりよく生きるだとかそういうのが正義だと思うのは、その状態が一番心地よいと信じるからだ。人は信じたいものしか信じられないし、見て受け取ることはできない。
心地よい状態でいられる=自分のままで素直に生きられる。

ほとんどの人は自分が何を欲していて、一体何者なのかなんてことを理解して、定義して生きてはいない。私はせっかくなら、ちゃんと私はこうだと言える設定を持って生きていたい。はじめる前こそそれは虚構であるが、決めてしまえば虚構は真実となる。そして気付く、元から自分の中に持っていたものだったのだと。
今この時代この時期私は、やっと本当の自分と向き合うチャンスを得ている。とても有難く嬉しい事だ。


自分の設定した世界で生きている

「愛されたい」願望が湧いてしまった経緯について考えてみると、色々見えてくるものがある。

例えば親に十分に愛された感触がないまま大人になった、親に否定され続けてきた、友達に裏切られてハブられた、いじめられた、そして自分でも自分を否定し続けた。心はズタボロ。ぱさぱさに乾いたままの心では気力を保てないから、前向きな行動も起こし続けられない。食べ物が悪いから生理痛も酷く、それに伴いまた精神が落ち込む。負の連鎖が続いていた20代半ばまで、つまり最近までの自分が思い起こされる。

誰かのせいにするのは簡単だ。でもそれ自体には問題がないと思う。だって、必ず物事には因果がある。何かきっかけがあって起こるはずだからだ。

問題なのは、誰かのせいにして自ら考えて解決に向けて行動することを放棄し、その上でその誰かの事に対して怒りを抱いたり、責めたりすること。

私は結局これらを考えていると行きつくことがある。
私は、自分でもっと自分を愛してあげればいいのだという事。
私は「自己肯定感が低い自分」「自信がない」「自分はダメな人間だ」
そういう設定をして生きてきた。
虚構の世界の中で、そんな設定をするよう促されていたのかもしれない。

だから、今度からはそれに抗って、こうしよう。
「私は自分のことが大好きだ、今日もこうして優しく笑って
 生きている自分を誇りに思うよ。
 私は美しい。そこにいるだけで何よりも尊い存在。
 ありがとう、私の周りに存在する、周りで起こる全て。
 素晴らしく美しい日々に暮らす今は幸せだね。
 ありがとう、私。ありがとう、世界。」 ってね。

あの人の事もそう、きっとこれからも大好きなことに変わりはないけれど、それは一人の人として。あの人に恋愛感情を抱いた自分、報われない恋をしている悲劇のヒロイン、そんな設定を打ち捨てた。その設定自体が自虐だった。今までいつもそうしてきたんだなと気づいた。

次は幸せな恋をすることが出来ると断言できるのは、相手から私は愛されていて、自分はとても美しいという設定をするからだ。次第に現実となるだろう。

虚構の世界の罠にはまって、まんまと騙され続けるのはもう終わり。
嘘を見破り、嘘を利用し、踏み台にして
正直で真摯で前向きな革命をしよう。
私たちの本質はそこにはない。



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