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夕暮れの浜辺でシャロウを聴いてみた

前置き SQUALLのシャロウについて

Rain Dropsセカンドワンマンライブ『SQUALL〜雨ニモマケズ/風ニモマケズ〜』から早半月が経った。
2日間のステージはどこを切り取っても、素晴らしい瞬間ばかりだった。その中でも特に印象深いシーンの一つが、両日歌われた三枝明那の『シャロウ』の夕焼けだ。

明那の歌声と沈む夕陽が相まって、強く感情を掻き立てられた。

ただ、この光景に対しては"感動"以外に"驚き"もあって、それが印象に残った理由だったりする。

シャロウの情景に夕陽を持ってきたのか……!」という驚きである。


『バイオグラフィ』リリース時の全曲同時視聴配信にて、明那が「シャロウの曲題は自分で考えた」と話していた。曲を聴いて「夜の浜辺の……チャパッ……みたいな、三角座りしてチャパッ……みたいな」イメージが湧いたので、『シャロウ(shallow=浅瀬)』というタイトルにしたのだという。

1サビの頭も「夕暮れの夜空」であるし、「シャロウ=夜の浜辺」というのが解釈のセオリーではあると思う。私は上述の配信で初めてシャロウを聴いたこともあり、「日が沈みきった直後の浜辺」をイメージしてシャロウを聴いてきた。東の空には既に星が瞬き、西の空はまだ微かに太陽の残光で色づいている情景。色で言うと紫からピンクへのグラデーション。

だから初日の『雨ニモマケズ』で、燃えるようなオレンジ色を見た時のインパクトは強烈だった。

夕暮れという時間帯から切り取る瞬間が、音源とライブで変わっている。音源は"夜空"、ライブは"夕焼け"。
私はこの変化によって、曲の性質が変わったように思えた。

すごく感覚的な説明になるので、理解していただけるか分からないのだけど、「曲の伝わり方」に変化が生じたように思えたのだ。

曲の伝わり方って2種類あんねん。

"押し"と"引き"、とでも言えばいいだろうか。

"押し"は曲から発せられる感情が自分に叩きつけられる感じで、"引き"は曲中の感情に共感して引き寄せられる感じ。
「曲が自分に向かって来ている」と「曲に自分が向かって行ってる」のベクトルの違いみたいな……、伝わるだろうか。

音源のシャロウは"引き"の性質が強い曲だったのだけど、ライブのシャロウは"押し"が強くなっていたように感じた。

そう感じた原因は明那の歌い方によるところも大きいが、モチーフの影響もあると考えている。
夕陽、太陽というモチーフは我々を照らしてくれるもの、光を届けてくれるものであり、"夕陽が自分に向かって"という構図であるため"押し"の性質を強める作用がある。
音源のシャロウには当然ながら映像がないため、歌詞中のモチーフが印象に影響している。歌詞には夕陽や太陽は存在しておらず、実際に含まれているモチーフは"星"である。星は「星に願いを」とか「星に手を伸ばす」のように、"自分が星に向かって"の構図が多く、"引き"の性質と相性がいいモチーフだ。

"引き"の性質が強い曲というのは、「寄り添ってくれる曲」のように評されることが多いと思う。シャロウに慰められた夜がどれだけあっただろうか。

"押し"の性質が強い曲は、主張・訴えを感じさせる曲が多い。
だから、何と言うか、夕陽を背負って歌ったことで、「シャロウという曲の感情」にプラスで、「明那のこのライブにかける想い」までもを感じられたと思っている。
SQUALLというライブには様々な想いが込められていたと思う。その詳細を推し量ることは難しいけれど、想いの大きさとか、切実さみたいなものはこれ以上ないほどに伝わってきた。


説明の都合で、曲それ自体を"押し"と"引き"に分類できるかのような書き方をしてしまったけれど、実際は一曲の中に"押し"の部分と"引き"の部分がある。ライブのシャロウのラスサビ前の演出は強烈な"引き"だった。
夕陽の演出で"押し"の強化がされたことで、元々の"引き"の部分も強調されて、感情の振れ幅が大きくなった。ライブというものは激しい曲は勿論ド派手に演ってくれるんだけど、しっとりした曲も、しっとりとした曲なりの派手さをぶっこんでくることが、往々にしてあるよなぁと思う。

まあ、長々と語ったが、SQUALLのシャロウは最高だったというお話だ。

本編 海でシャロウを聴いてみた

シャロウを聴くときは、いつも浜辺を空想していた。SQUALLでは映像の演出が加わり、夕焼けの浜辺を目にしながら聴くシャロウの感動は一層大きかった。

空想から映像に変わってこうなるのなら、実際に浜辺で聴いたらどうなるのだろうか?


ということで、検証のために浜辺に来た。

30分弱車を走らせ、地元の海岸へ。

波はそこまでだが、風が強い。遮るものがないため、絶え間なく吹き続けている。

駐車場近くの砂浜は多少の賑わいがあったので、人気の少ないところまで波打ち際を歩いていった。

程なくして、いい具合に日が傾いてきた。ここの海岸は海側ではなく山側に日が沈んでしまうので、SQUALLのような夕陽を拝むことはできなかったが、自分のイメージしていた情景に近い景色だ。

適当な流木に腰を落ち着けて、イヤホンを装着し、シャロウを再生した。


検証結果

夕暮れの浜辺でシャロウを聴くと……

率直に言ってエモかった。

波の音をバックに、潮の香りを嗅いで聴くシャロウは、なんとも形容し難い良さがあった。

最初は実際に浜辺で聴くことで「新しい解釈や気づきがあるかも」という期待があったんだけど、そうはならなかった。
ロケーションを整えたことで得られたのは、「曲との一体感」だった。曲を"理解"しようとする思考は消えて、極めて自然体でシャロウを聴くことができた。

今まで頭で考えていた詞やメロディの意味が、無意識のうちに自分の奥深くに染み込んでいくような感覚。
自分の感情と曲が一体になって、曲を聴いているという意識さえも消えたような心地がした。曲を客観的に観測できなくなったというか。

曲の終わりも不思議な感覚だった。アウトロが終わっても波の音がまだ続いていて、曲の感情は自分の中で息づいていて、終わった感がなかった。曲と現実が解けて混ざって、ふわふわした。

色んな感覚が溢れた結果、

となった。


まとめ

「どんなシチュエーションでその曲を聴くか?」を試行錯誤するのは、中々有意義だと思う。好きな曲をもっと好きになるための、能動的な取り組みができている、という満足感があった。曲への愛着も増した。

学生時代にレイドロに出会えていたなら、「放課後のボールの音」を遮るように『ラブヘイト』聴いてみたかった……。
でも大人になってから出会えたおかげで、仕事帰りの運転中に『ソワレ』を聴くことができる。
レイドロの楽曲が幅広い年齢に対応していて良かった。

これからも、人生の色んな場面で、もっとレイドロの楽曲を好きになっていけたらいいなと思う。


番外編

シャロウを聴き終わった頃、浜辺はほとんど無人になっていた。
この状況、もう一つの検証を行うチャンスだ。

題して、

全力疾走しながらオントロジー聴いてみた


MVで走る楽曲は名曲。

Rain Dropsというグループを象徴する楽曲であり、数々のシーンで重要な役割を果たしてきた『オントロジー』。
この曲のもたらす感動と高揚はいつ聴いても凄まじく、思わず駆け出したくなってしまう程だ。

じゃあ、実際に駆け出してみようや。

ランニング中にオントロジーを聴いたことはあるんだけど、ちょっと違うんだよね。爽やかな汗を流したいんじゃなくて、想いが堰を切ったように、溢れ出るがままに、居ても立っても居られなくなって、走り出してしまいたいんだよね。

MVのように街中を疾走するのは少々ハードルが高い。公園などのランニングコースを選ぶとスポーツ感が出てしまう。砂浜は絵的に丁度いい、交錯の危険もゼロだし。

では実行あるのみ。

感情をピークに持って行くため、私は『風ニモマケズ』のセトリに合わせて作成したプレイリストを、『きこえ』から再生した。

きこえを聴きながら、波打ち際を歩く。

Under The Moon、……時おり足が止まる。

formula、また歩き始める。歩調が徐々に早まる。


ギターの音。

オントロジーが流れ出す。

足に、腕に、力がこもっていく。何かに押されるように、体が前へ前へと向かっていく。

サビが来ると同時に、めいっぱい足を踏み出した。

検証結果

クソエモだった。

過去最高に胸が高鳴り(比喩抜き)。
心臓が張り裂けそうになり(比喩抜き)。
嗚咽が止まらなかった(比喩抜き)。

死ぬかと思った(オタク特有の表現と思いきや率直な感想)。

インドア派がいきなり砂浜を5分38秒ダッシュするとこうなります。

でも実際良かった。全力オントロジー。

サビの開放感と一体になれたよ。爽快だった。

強くオススメします。

でもやっぱり、ラスサビのダッシュの後は青い空を見上げたかったな。今回は夜空でした。

いつか、夕立雲を追いかけるシチュエーションでリベンジしてみたい。

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