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鑑賞体験と偶然性

 高校時代、同じクラスにいた友人から「なにか面白いアニメはあるか」と問われ、『リズと青い鳥』を勧めたことがある。

 数あるアニメ作品の中から僕が『リズと青い鳥』を選んだのは、なによりその映画が、おそらく僕の人生にはじめて「激しく心が揺さぶられる」ような感動を与えてくれた作品だったからである。

 おまけに彼は吹奏楽部員で、しかもユーフォニアム奏者。

 まだ純朴なアニメオタクだった僕は、彼が同じような感動をもって映画を体験してくれることを期待していたし、数少ない友人の一人として、そうなってくれることを望んでいた。

 

 だから数日後、本作を見た彼が「あまり面白くなかった」と言ってきたときは、かなりショックというか、大袈裟に言えば非常に悲しい気持ちになった。

 面白くなかった。

 僕にとっての「人生の一本」が、彼にとっては、そんな簡単で残虐な言葉で済まされるような、その程度の作品だった。

 その事実は、それからしばらく僕の頭を悩ませ続けることになる。

 面白くなかった。

 たったそれだけで、僕は自分の人生をまるごと否定されたような、きわめて鬱屈とした気分になった。

 思春期特有の繊細さ。

 そう割り切ってしまえば単純なことかもしれない。

 事実、高校生だった僕は、まだ世界の色々なことを信じていたし、自分が他人から共感を得るということにきわめて重大な価値を置いていたし、なにより、目の前の友人くらいは僕と同じ感性を持っていてくれるものだと思っていた。

 しかし少なくとも、当時の僕にとってこの些細な出来事は、今まで自分が持っていた世界観をすべて否定してしまえるくらいのインパクトを持っていたし、ある種の「事件」といっても過言ではなかった。


 座席の快適さ。

 気温。

 ポップコーンの味。

 ドリンクのフレーバー。

 思えば、映画の体験はさまざまな偶然性に彩られている。

 上に挙げたもの以外にも、例を挙げればキリは無い。

 もちろん、それは映画に限った話ではなく、全ての鑑賞体験について同様に言えることだ。

 その日の体調。

 同伴者の有無。

 年齢。社会階層。境遇。

 その人が今まで、どのような人生を送ってきたか。

 一つとして、同じ鑑賞体験は存在しない。

 100人中99人が面白いと思う作品も、最後の1名からは「つまらない」と切り捨てられるかもしれない。

 あるいはその逆もあるかもしれない。


 『リズと青い鳥』を見て「つまらない」と言った彼は、あまりその日の体調が芳しくなかったのかもしれない。

 激しく耽美的だが、しかしその裏にあるはずの「吹奏楽部らしさ」(あいにく僕は当事者ではないのでそれがどういうものなのかはわからない)が捨象されてしまった『リズと青い鳥』という作品は、吹奏楽部当事者であった彼にとって、あまり気持ちのよいものではなかったのかもしれない。

 いずれにせよ、まったく当たり前のことながら彼は僕とまったく違う人生を歩んでいた。

 そして彼の人生は、高校生の春に『リズと青い鳥』を見て、「激しく心を揺さぶられる」ような感動を体験し、その後みるみるうちに百合の沼へとハマっていく人生ではなかったということだ。

 もしも僕が吹奏楽部に所属し、彼が将棋部に所属していたら、あるいはその鑑賞体験はまったく逆の結果を生んでいたのかもしれない。

 僕はたまたま、『リズと青い鳥』で感動できる人生を送っていた。

 傘木希美と鎧塚みぞれの関係性について思索をめぐらせ、過去を振り返り、そして今も、あげくの果てにこんな誰が読むとも知らない記事を書いてしまうような人生を送っている。


 すべての鑑賞体験は、偶然性に支配されている。

 僕はたまたま、『リズと青い鳥』を見て感動するような人生を送っていた。

 彼はたまたま、『リズと青い鳥』を見て感動できないような人生を送っていた。

 そう考えると、世界はひどく残酷で、冷徹で、味気ないように見えてくる。


 この「鑑賞体験と偶然性」の問題については、僕は個人的に思索を深める必要がありそうだ。

 ひとまず今日は、結論を急ぐことなく、ここで筆を置いてみることにする。 

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