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5-4 母の死

 また時間が少し遡るが、母の闘病中に、三人兄弟の一番上の姉が結婚式を挙げた。「母が癌だから」結婚したわけではなく、婚約して、結婚式の日取りが10月と決まったその後に、母の病気が発覚したのだ。

 高校を卒業して早々に家を出て行った、勝手気ままな末っ子の私とは違い、姉はずっと家にいた。真ん中の兄も就職すると会社の寮に入ったらしく、家にはあまりいなかった。姉だけが一人暮らしも経験せず、ずっといた。

 「誰か家の跡取りを」などと無理強いされる家庭ではなかったが、それでも一人残った姉に対しての、「家のことよろしく」プレッシャーは少なくないものだったと思われる。

 実家は父が長男であるため、祖父母と同居していた。同居していたが、格別仲の良い三世帯家族だったわけではなく、特に祖父と父の折り合いは悪かった。祖母が亡くなってからはますますで、母が間を取り持っているようなところがあった。家族の精神的大黒柱のような存在だった母が入院してからは、姉がその役割を自然と担うことになり、「お姉ちゃんが結婚して出て行ったら、どうなるの?」という状態だった。まあ、早々に家を出た私は部外者になっていたので、本当のところの当人たちの気持ちは違ったかもしれないが、少なくとも、私にはそう感じられた。


 しかし、姉も、だからと言って結婚を取りやめるわけにはいかない。むしろ、「娘の花嫁姿が見られる」ということは、闘病中の母にとっての、心の柱となる希望の一つだった。

 姉の結婚式の日取りは十月だったが、母の闘病生活は過酷を極めたため、母の結婚式出席は危ぶまれた。いざとなったら、ビデオを撮影し、それを病室で母に見てもらおうとなった。

 さらに、姉が結婚式前に入籍し、新居に引越してしまったため、退院しても母は大変そうで、ますます「結婚式出れるかな?」という状態になっていった。

 ただ、「娘の花嫁姿を直に見たい」という母の気力はすごかった。

 私たちは「生まれてくる赤ちゃんのため」という名目で新しいビデオカメラを買い、密かに母が式に出られなかった場合の準備を進めていたが、母は出席する気満々で、病院のベッドの上で準備をしていた。一応、本人も口では「体調が悪くて行けないかもしれない」とは言っていたが、明らかに結婚式に出る気で、私に「あなたのドレスも素敵だったけど、お姉ちゃんはどうかしらねぇ。あの子もようやくだねぇ。楽しみだねぇ。いい人が見つかって良かった」とニコニコ嬉しそうに話してくれた。

 割と直前まで、担当医は「外出できるかどうか」と首をひねっていたと思うが、母の底力が発揮され、みるみる顔色が良くなり、父に礼服を家から発掘してこさせ、器用と評判の病院のスタッフにヘアセットをお願いし、母は見事に娘の結婚式出席を果たした。

 車椅子に乗って介助された状態なものの、母は一日横になることなく過ごし、娘の花嫁姿に涙を流していた。結局、ビデオは必要ではなくなったものの、「記念に」と私の旦那が撮影した。このビデオが、母の肉声を記録した最後のものとなった。


 「このまま治るんじゃないか」という勢いで、姉の結婚式に向けて回復していった母だったが、それは「娘の花嫁姿を見たい」という母の気力が成し遂げたものであり、結局、根本は良くなってはいなかった。母は、再び衰弱の一途をたどっていった。

 結婚式の約一か月後、私が、お腹の赤ちゃんの丸顔の写真を見せて「また来るね」と言って別れた翌日、母は脳梗塞で倒れた。いや、元々倒れているのだが、まともな会話ができなくなったのだ。こちらの言っていることにやや反応が見られたため、恐らく意識はあって家族のことを認識してくれていたと思うが、目は見開かれたままであまり見えていないようだった。体は小刻みに震え、思い通りに動かせていなかった。「容態が悪化した」と聞いて飛んで行ったのだが、前日まで弱々しいものの普通に会話ができたことを思うと、あまりの変わりように私は愕然とした。毎日のように病院に来ていたのに、たまたま仕事で前日面会に来れていなかった姉が、泣き叫んでいた。

 そんな光景を見て、呆然としつつも、私はどこか冷静で、「あと、一週間かな」と心の片隅で感じた。

 でも、「あと一週間」などと、私は認めたくなかった。そんな状態になっても、なおも私は「回復するかもしれない」と希望を捨てなかった。いや、「捨てなかった」のではない。「捨てられなかった」のだ。もしかしたら、会話ができなくとも、赤ちゃんを胸の上に乗せてあげるだけ、延命することはできるかもしれない。会話ができなくとも、母は喜んでくれるかもしれない。そう思わなければ、私はその場に立っていられなかった。


 どうも母は長い入院生活であまり動くことをしなかったもので、いつの間にか血栓ができていたらしく、それが脳に行ったらしかった。全く動くことができず、全身が硬直し、腕も足もパンパンに浮腫んでしまった母のために、私は必死でマッサージをした。アロマとか、それももう頭になかった。とにかく触れた。むくみをとり、母の苦痛を和らげようと、そして、母の温もりを少しでも自分の体に刻もうと、私は手を動かし続けた。

 父が毎日、病室に泊まり込んだ。私は自宅アパートに帰らず、旦那に必要なものを持ってきてもらい、実家にそのまま寝泊まりした。姉も兄もみな、毎日のように面会に行った。家族全員で、母を支えようとした。


 「あと一週間」と思った母は、結局、それから10日生き延びた。


 その時は、小寒い、朝も早い時間だった。寝ている間、携帯電話はマナーモードにしているので、普段は着信があっても気づかないのに、その日は珍しく、早朝の着信に気づけた。父から、「少し状態が悪化した。今日かもしれないから、準備できたら病院へ」とメールが来た。でも、それほど急ぎのようではなかったので、私は「病院に行こう」と祖父を起こし、少し寒かったので、牛乳を電子レンジで温めた。その牛乳を飲もうとしたその時だった。父から電話があり、「すぐに来い!」と言われた。

 私は牛乳を投げ捨てた。その後の記憶はあやふやで、姉と実家で合流したのか、病院の駐車場でたまたま一緒になったのか、それすら覚えていない。ただ、はっきり覚えているのは、祖父を慌てて車に乗せたこと、病院の時間外入り口に姉と一緒に飛び込んだこと、そして、ナースセンターの前を駆け抜ける時、「ピー」という心電図の音が聞こえたことだけ。

 その心電図の音は、母のものだった。既に、母の心臓は止まっていた。姉と病室に飛び込んだ瞬間、父から、「間に合わなかった」と一言だけ告げられ、私たちは全てを悟った。

 私は母に謝った。「ごめんね。孫を抱かせてあげられなくて、ごめんね」と言って、まだ温かさの残るその体を抱きしめた。姉も何か言って泣き叫んでいたが、何を言っていたのかは覚えていない。父が「(孫を)楽しみにしとったのに!」と悔しそうに壁の方を向き、泣いていたのは覚えている。生まれて初めて見た、父の涙だった。祖父は、「嫁に来てくれてありがとうな」と言って、やはり泣いていた。兄は少し遅れて病院に到着した。

私たち家族は、精神的大黒柱を失った。

 秋も終わりに近づき、冬の足音が聞こえてきた11月末のことだった。母、享年57歳。楽しみにしていた孫が生まれるまで、あと二か月ちょっとだった。

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