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5-1 母の、癌

 私の母は、超がつくほど子供好きな人だった。どれくらい好きかって、末っ子である私が大きくなり、手よりもお金のほうがかかるようになったら、保育士の資格もないのに保育園で働くようになったくらい。「もぐり」というと聞こえは悪いし、臨時職員みたいなもので資格なしでも働けるポジションだったので、違法でもなんでもないのだが、まあ、知り合いのつてを使って潜り込んだ感じだった。職場や保護者との人間関係で悩むこともあったようだし、体力もかなり使うし、他に割のいいパートもあったと思うが、それでも「子どもに関わる仕事をしたい」と思うほど、子供好きな人だった。

 そのため、孫を熱望していた。私は三人兄弟の末っ子なのだが、私が一番最初に結婚したため、当然期待の眼差しは私に向けられた。当時、親世代にはまだ抵抗感のあった「できちゃった婚」も特に気にしない、むしろ子供が生まれて結婚もできるなんて万々歳くらいの雰囲気だった母は、何なら私が「彼氏ができた」と言った段階から「いつでもいいわよ!」と言ってくるくらいだった。何が「いつでもいい」んですかと(笑)。


 でも、私は付き合っているだけの段階の時には、仕事に夢中だった。子供はいつか欲しいと思っていたけれど、「結婚してからで」と思った。

 結婚した後は、すぐにでも子供を、とも思っていたが、色々とご縁が繋がり、とある職場から「産休・育休中の人の代替として、臨時職員で働いてほしい」と声がかかった。困っている様子だったし、悪い話ではなかったので、私は働くことにした。合計二年弱お世話になったが、「産休の代替要員が、産休に入るのは悪いな」という感じがして、結局子供は先延ばしになった。


 臨時職員の任期が切れる時、他の部署でやはり臨時職員として働かないかと有難い声もいただいたが、「そろそろ子供を」という気になっていたので断った。でも、同時並行でアロマスクールにも通っており、例のI協会の本気の資格試験に向けて勉強真っ最中だったので、「資格試験に合格してから」と、またまた先延ばしにしようとした。その、矢先だった。

 母に癌が見つかったのは。


 時は2011年4月。母は最初、「お腹が痛い」と言っていた。東日本大震災の直後だった。母は非常に感受性が豊かで、人の感情に敏感で、すぐにもらい泣きする人だった。我が家は親戚や母の知り合いを含めて被災した人はいなかったけれど、きっと、震災で母はとてつもなく心を痛めているのだろう、だから、お腹が痛いんじゃないだろうかと思った。

 しかし、日が経っても一向に良くならない。良くならないどころか、眠ることさえできないというので、病院を回ったようだった。そして、とある病院に父が付き添って行ったら、父が血相を変えて帰ってきた。「癌かもしれん」

 専門の病院で検査を受けた。確定された。しかも、すい臓だった。

 癌について多少詳しい方なら、「すい臓癌」と聞いたら、すぐに「お気の毒さまに」と思われることだろう。私は最初、その恐ろしさを知らなかった。


 私の祖母は、私が大学院生だった時に、別の部位の癌で亡くなった。その経験がなかったとしても、癌が死に繋がる病だということは重々承知している。しかし、必ずしも亡くなる病だとも思っていない。身近にサバイバーの知り合いもいて、話を聞いたこともあるからだ。

 だから、最初、「母に癌が見つかった」と聞いた時も、「絶対死ぬ病気というわけじゃない」と反射的に思ったので、怖くなかった。「希望を捨てずに闘病すれば、必ず治る」と根性論的希望観測をしていた。いや、「希望を捨てなければ、治る」と自分に言い聞かせなければ、私はその事実を受け止めきれなかったから、そう思い込もうとしただけなのかもしれない。

 実家で母の癌のこと、そして、医師から告げられたという余命を聞き、私は旦那と自宅アパートに戻った。私はまだまだ、「大丈夫。お母さん、治るよ」と自分に言い聞かせて、余裕ぶっていた。その日の夜、私は「どうやって、母にアロマとかの代替療法をお勧めしようか」と思い、試しにすい臓癌のことをインターネットで調べた。


 そこには、私のちっぽけな根性論的希望観測を打ち砕くにはたやすいほどの、絶望的な言葉が並んでいた。


 「早期発見が難しく、主要癌の中で最も生存率が低い」「癌の帝王」「見つかった時点で、末期(ステージ4)の人がほとんど」「5年生存率は、ステージ4で2%未満」「多くの人が発見から数か月で亡くなる」などなど…。

 マウスを握る私の手は、徐々に震え始めた。私の母も、ご多分に漏れず、末期で見つかった。父から教えられた、医師の見立ての余命は「一年」。信じられなかった。祖母だって、癌が見つかってから数年生きた。私は最初、「またまたそんな、ドラマみたいなことを」と思ったが、余命を教えてくれた父の声が、頭の中にこだました。「余命一年は、本当にありうる話なのだ」とようやく思えた。


 私は声まで震わしながら、旦那に訴えた。「本当にお母さんが死んじゃうかもしれない!?孫…孫の顔見せなきゃ。余命一年?どうしよう?子供間に合わないかもしれない!?」

 私は子供を先延ばしにしてきたことを、心の底から後悔した。「仕事したい」「資格取ってから」と自分の都合という名の我儘で、親孝行まで先延ばしにしてしまったんだ。私は自分を責めた。しかし、絶望するには、まだ早すぎる。


 幸い、私はすぐに妊娠することができた。アロマをやって体が整っていたおかげかもしれない。私は少し安堵した。「赤ちゃんができた」と告げると、母も涙を流して喜んでくれた。

 ここから、「お腹の赤ちゃんが日々育っていく喜び」と、「母が徐々に弱っていく悲しみ」が交互にやってくる、希望と絶望のジェットコースターのような日々が始まった。

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