歴史千夜一夜(8) ユダヤ人渡来説

 歴史の好きな方なら結構ご存じかと思いますが、古くは日ユ同祖論と呼ばれているものです。日本の言葉の中にヘブライ語と同じものが多かったり、神殿の祀り方などの宗教や風習が同じだったりすることから、明治時代からこの説があります。伊勢神宮の紋がユダヤの六芒星と同じだとか、神輿などの風習がユダヤと似ているなど様々な話がありますが、伊勢神宮の紋は明治以降に作られたという話もあり、証拠は詳しく確認していく必要があるとは思います。
 淡路島にも、古代のユダヤの人が渡ってきたといわれる遺跡があります。アカデミックな話ではあまり取り上げらえていませんが、ユダヤ人が渡って来た可能性は高いと私は考えています。なぜなら、ユダヤ人は宗教的に東の方角に良い土地があると思っていた可能性が高く、自分たちの居場所がなくなった時に東に向かった可能性が高いからです。

 しかし、巷のユダヤ人渡来説には大きなミスリードがあると思っています。それは来た時期に対してあまり深く考えていない点です。ユダヤ人が宗教的な意味合いで東を目指したのであれば、日本に移住した可能性は一回ではないからです。

 まず、古代イスラエルが南北に分裂したのが、紀元前930年頃、それから北イスラエルは紀元前721年に滅ぼされました。イスラエルにはもともと北に10の部族が、南に2つの部族がいたのですが、北の10の部族が行方不明になりました。

 この失われた10部族の話は西洋では有名な話であり、「宇宙空母ギャラクティカ」というドラマのモチーフにもなっています。そして、その失われた10部族が日本に来ているというのが、多くのユダヤ人渡来説で語られています。

 しかし、その後、南のユダ王国も他国の支配に入ります。紀元前609年にはエジプトの支配下に入り、紀元前587年には新バビロニアに滅ぼされて捕囚になってしまいます。その後、紆余曲折してローマの属州になりますが、紀元132年には属州も滅ぼされてしまい、ユダヤ人は流浪の民族となります。

 問題は、この時の人々が日本に来た可能性です。先の10部族と同じように日本を目指したとしたらどうでしょうか。そして、日本にユダヤの人たちが移住した町とか村があったとしたら、新しい人たちと和解して、ひとつになったでしょうか。

 北の10部族が移住したとしたら紀元前700年から600年、南の2部族が移住したとしたら、紀元前500年から紀元後200年ぐらいでしょう。お互いに相手を理解できたかどうかはわかりませんが、お互いに理解できたとしても手を結べたかどうかは非常に疑問です。なぜなら、もともと北と南に分裂するということは、政治的もしくは宗教的な対立があったはずです。

 北の10部族には、10部族にはカウントされませんが、イスラエルの祭祀をあずかるレビ族と呼ばれる人々がいました。いわば正当な祭司長です。しかし、南にも当然祭祀をあずかる人たちがいたのだと思います。それはユダヤ人渡来説でよく言われるカド属かもしれません。帝、みかどはミ・カドから来ているとも言われます。

 となると、当然正当争いが始まったはずです。この話なにかに似ていると思いませんか。日本神話の国津神と天津神の話です。日本神話でも、先に高天原から降りてきた国津神が、正当性で争い天津神に敗れて支配されてしまいます。ひょうとしたら同じようなことが起こったのかもしれません。そして、年代的にいうと先に移住した北の10部族は縄文の人たちとともに、東北の方に追いやられた可能性があると思います。そして、東北にユダヤの伝承が残る地が出来たのではないでしょうか。

 でも、ユダヤ人の移住に関してはもう一度大きな転機があると思っています。それは、イエス=キリストの死とキリスト教の弾圧です。確かにキリスト教はローマにおいて弾圧されました。しかしそれは、キリスト教徒のユダヤ人だったのでしょうか、キリスト教徒のローマ人だったのでしょうか。
 さまよえる民のなったユダヤ人は迫害されます。もちろん国を持たないのが最大の迫害要因ではありましたが、キリストを死に追いやったのがユダヤ人だったという側面もあります。

 では、キリスト教徒のユダヤ人たちはどこへ行ったのでしょうか。一部はヨーロッパに渡ったのでしょう。その痕跡はありますが、それだけでしょうか。先の北と南の部族のように東を目指さなかったでしょうか。

 中国で布教されたキリスト教は景教とよばれ、唐の時代それなりに盛んだったと思われます。そして、空海も中国で接点があったという説もあります。では、その前にキリスト教を伝えた人たちが中国に来ていてもおかしくないはずです。たとえば、ローマにいられなくなったユダヤ人のキリスト京都です。

 彼らが中国に来た当時、日本は中央集権化に突き進んでいる真っ最中でした。そして、大陸からの知識人には何としても来て欲しかったのではないかと思います。また、当時、中国にいた人の視点から考えるとわざわざ蛮人の住む国に進んでいきたいと思っている人は少数だったでしょう、故郷を失ったユダヤ人キリスト教徒以外は。

 そして、ユダヤ人キリスト教徒たちは中央集権化の中において日本の建国に関わるようになります。歴史書の編纂や、宗教の整備です。最近は実在ではないと言われている聖徳太子ですが、なぜ馬屋で生まれたなどという伝説を作る必要があったのでしょう。普通に生まれただけで良かったはずです。ユダヤ人キリスト教徒が、キリストの話を日本の神話に残そうとしたのではないでしょうか。同時に、彼らは北と南の部族が先に来ていた痕跡をみつけて、国津神と天津神という話を作ったのではないでしょうか。

 すべては想像の話ではありますが、ユダヤ人の移住が何回にも渡ってあったと考えると、紐解けるとも思われます。最初に移民してきて征服された10部族、日本の歴史の中に埋もれた2部族、日本の中央集権化の中で日本の中に潜んだキリスト教徒など、歴史の中で闇に消えた存在は多くあるのでしょう。その後も空海とともに来た景教や戦国時代に来たエッセネ派といった人たちもいます。特にイスラエルの正当な司祭長でありながら、闇に沈んだイスラエル13部族のレビ属にも再び日の光があたると良いかなと思います。

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