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スピリチュアルな誤解(5):悟りや覚醒なんて役に立たない

 宗教やスピリチュアルに興味がある人が憧れるものに「悟り」や「覚醒」という体験です。そしてそれこそ全てと思っている人も多かったりします。しかし、それも思い込みに過ぎないと思います。「悟り」や「覚醒」、場合によっては「神秘体験」をしても、結局は社会不適合になる人の方が多いと思います。
 もちろんイエスやブッダのように世界的な宗教を創り出す人たちもいるので、必ずしも、役に立たない訳ではないでしょうが、99パーセントぐらいの人には役に立たないと思います。これも構造的な問題です。
 このタイプのアプローチでは、通常、「個我(エゴ)」と「本当の自分」を認識し、その「個我(エゴ)」の部分を一時的にオフにすることで、この状態を作り出します。瞑想、座禅、自己観察、自己想起など、呼ばれ方は様々ですが、原理は同じです。「個我(エゴ)」がオフになると、至福感に包まれたり、世の中が光輝いて見えたりします。また、体験後、様々な不安も減少します。私の知人は「誰でも3ヶ月あればこの状態になれる」と言っていましたが、その通りだと私も思います。
 しかし、その状態は単純に「個我(エゴ)」がオフになっただけのことです。「個我(エゴ)」の状態が変わった訳ではありません。「個我(エゴ)」が不整備であれば、現実世界で様々な問題を引き起こすのは以前のままなのです。先程の知人が言っていましたが、多くの覚醒体験をした人に会い、自分と同じ覚醒体験をしたのは分かったが、人としてどうかと思う人が多かったとのことです。
 多分、本当は「個我(エゴ)」をオフにして、「個我(エゴ)」というものを客観的に理解した後で、「個我(エゴ)」を整備する方法が昔は存在していたのでしょう。しかし、現在はそういう話も残っておらず、単純に「悟り」とか「覚醒」だけを体験しようとするから、そういうことになるのだと思います。
 ちなみに少し違った話ですが、座禅というシステムは、坐禅だけでなく、生活全般が座禅になっています。例えば雑巾掛けをする事により、長時間の着座姿勢で頭から降りてしまった血を頭に戻したり、手足の経絡を刺激して身体の健康を維持したり、と日常の作法とペアで座禅というシステムを構成しています。ですから、座禅という座ることだけを取り出しても、本当の座禅にはなりません。
昔のシステムを現代風にアレンジする為には、そのシステムの全体の意味を理解して、必要な要素を完全に移行しないと意味がないのです。もちろん部分だけでも意味はありますが、そういうことを理解しておく必要はあると思います。
 話は「悟り」や「覚醒」に戻りますが、それはそんなに特別なことでもなく、「個我(エゴ)」を整備できないと意味がないということになります。加えて「悟り」や「覚醒」を体験したということで、自意識が過剰になったり、他人を見下すようになったりすれば、返って悪い方向に働きます。そういう意味で、中途半端な「悟り」や「覚醒」は、現実世界を生きる上で、全くと言っていい程、役に立たないと思います。

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