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算聖之碑 風景印と記念碑

 群馬県藤岡市にある藤岡ふじおか郵便局の風景印には和算で名高い関孝和せき たかかず(1640?-1708)を顕彰した「算聖之碑」が描かれています。

関孝和

 関孝和は、藤岡で生まれたと言われていますがその生い立ちについては不明な点が多いそうです。
 「上毛かるた」には「和算の大家、関孝和」と読まれており、群馬県の人には「せき こうわ」の方が通りが良いかもしれません。
 関孝和の業績については、記念碑の碑文が詳しく記されていますので、そちらを引用しました。

記念碑の地図

記念碑は藤岡市の中央公園の敷地内にあります。

動画

碑文

算聖之碑

本朝算学の泰斗関孝和先生、本姓は内山、通称は新助、寛永十九年三月上野国藤岡に生る。父は内山七兵衛、母は湯浅氏なり。関五郎左衛門に養はれ、同家を嗣ぐ。内山、関の両家は武田氏の遺臣にして、藤岡の領主芦田氏に仕へ、芦田氏没落の後徳川氏に召出さる。
先生は徳川四代将軍家綱に仕へ、始は 御勘定吟味役、後に御納戸組頭となり、禄三百石を食む。宝永五年江戸に於いて病歿す。享年六十七歳。牛込区弁天町浄輪寺に葬る。甥新七を養いて嗣となす。 関家は新七を以て断絶す。
寛政六年関流算学者本多利明等は、先生の墳墓の荒廃せるを慨し、旧墓石の右側に、正面に関先生之墓、陰面に碑文を刻める石碑を建てたり。先生の墓所は大正十三年東京府の指定史蹟となる。
先生人と為り穎敏、天禀算数に長じ、幼時神童の名あり。高原吉種に就きて算学を修め、更に独創的研究に入り、思を潭くし、神を焦がし、終生倦まず、撓まず、先人未発の真理を闡繹し、新たに関流算学の根底を開拓す。
惟ふに、我が国の算学、先生以前にありては、主として支那より伝来せるものにして、幼稚なる初歩に過ぎず。然るに、天は算聖関先生を我が国に降し、以て 我が国独特の算学が勃興発達するに至らしめたるものにして、本朝算学は関流算学に終始するものなり。先生の著書数百巻中多くは、写本によりて伝へられ、刊行本の比較的に少きを憾とす。
先生の発見に係る諸術の中にありて、其の白眉とも称すべき円理術は、今日の 微積分学と帰趨を同くするものなり。西洋に於いては、英国のニュートン、独乙 のライプニッツ、東洋に於いては、我が関先生が、同一年代に各自独立に、終局するところ、帰結を同くする大発見を成せるは、数学の世界的発達史上の偉観にして、由来国民性的短所として、実学方面の創造力を欠けるが如くに、思惟せら れたる我が日本国民の意を強くするものなり。
先生の門下には高足逸材相次ぎて輩出し、先生の衣鉢を承け、研鑽を積み、就中、松永良弼、安島直円、和田寧等は円理術の完成に努力せしものなり。
明治三十三年、東京数学物理学会は菊池大麓氏の発議により、恰も明治四十年が先生の二百年忌に当るを機会とし、記念事業を行ふことを決議せり。仍て同会は、同年九月関流算法七部書、即ち開方飜変、題術辨議、病題明致、方陳、算脱験符、求積、毬闕変形草の七書を出版したり。
抑も、関流算法を修むるに見題、隠題、伏題の三階級、更に其の上に別伝、印可の二階級あり。此の五階級の免許を得たるを皆伝と謂ふ。七部書は最上級の印可の目録中にあり、奥義中の奥義として伝へられたるものなり。
此の年、先生の功勲天聴に達し、十一月十五日贈従四位の御沙汰あり。
同年、先生の忌日に当る十二月五日、東京数学物理学会は関孝和先生二百年忌記念講談会を催ししが、非常なる盛会なりき。余は、此の会の座長として、本朝算学を今時に保存する上に於ける功労者関流宗統七伝川北朝鄰氏及び本朝算学考覈上の羅針盤とも称すべき大日本数学史の著者遠藤利貞氏を会衆に紹介せしに、二氏今や亡し。寔に痛惜に堪へず。翌六日菊池氏の首唱により、浄輪寺なる先生の墓前に於いて,贈位奉告祭を挙行せり。
近頃、藤岡の有志者は、先生の如き世界的偉人を出せるを郷土の誇とし、先生 の碑を建つることを企図し、碑文の撰を余に嘱せらる。昭和践詐の勅語中に、模擬を戒め、創造を勗めよとあるを拝読し、感激措く能はざる余が、此の計画の偶然ならざるを感ずるや特に切なり。乃ち敢て辞せず此の文を草す。

昭和三年十一月十日
帝国学士院会員 貴族院議員 正三位勲一等 理学博士 藤沢利喜太郎
御歌所寄人 従四位勲四等 阪正臣書

『関孝和―その業績と伝記』(平山諦) から引用しました

 碑文を書いた藤沢利喜太郎(ふじさわ りきたろう 1861―1933)も帝国大学の教授を務めた数学者です。

藤岡郵便局

 風景印は郵便窓口で郵便物を差し出す時に押してもらえる赤茶色の絵入りの消印です。郵便窓口に「風景印を押して出してください」とお願いすれば、差し出す手紙やはがきに押してもらうことができます。また、63円以上の切手を貼ったカードなどに押してもらって差し出さずに持ち帰る(記念押印)こともできます。
 風景印は1954年(昭和29年)4月1日から使用開始されたものです。郵便窓口は平日のみの営業ですが、ゆうゆう窓口で差出ができると思います。

関孝和の碑、東西御荷鉾山、 三名湖、特産の瓦


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