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風景に感動する理由を教えて

なぜ人は、きれいな風景を見ると感動してしまうんだろう。Twitterやinstagram、いわゆるSNSの投稿では距離の近い情報が目について、そのたびにざわざわしたり…。

日常の情報がたくさん入ると、見る側の心は揺れ動いて疲れがち。でも、そこに美しい風景がすーっと流れてくるだけで、少し心が浮遊して、なんだか落ち着いた気分になりませんか?

「ずっと山を見ていると、山の気持ちになってきたりするんです」と話すのは、滋賀県立大学 地域共生センター助教授で風土に根ざした暮らしと文化を研究する上田洋平先生。「風景と人はシンクロする」と語ります。

なぜ人は、きれいな風景を見ると感動してしまうんだろう。当たり前すぎて考えもしなかったその理由をあえていまこそ聞いてみたい。上田先生を訪ねました。

こちらの記事は2020年に取材したものを再編集してお届けしています

webメディアしがトコ

文人たちが愛した滋賀”近江”の風景

しがトコ 亀口:しがトコでは、2012年の立ち上げ以来、風景を積極的に発信してきました。滋賀県の日常の風景そのものが美しいという理由もあるんですが、一方で、TwitterやInstagramなどのSNSでは、日常の情報がたくさん入ってきますよね。見る側の心も揺れ動く。

そういう時に、滋賀の風景を見て心を安定させる、日常から少し浮遊したような世界を感じてもらいたという思いもありました。

上田:はいはい。

しがトコ 亀口:以前、滋賀県が主催するイベントで、上田先生が「美の滋賀」についてお話をされた時に“行く春を近江の人と惜しみける”という芭蕉の句を紹介されていましたが、本日は、そこをもう少し詳しく聞かせていただけたらなと思っています。

上田:これですね、ちょうど資料がありますので、それを見ながらご説明しましょうか。

「総論近江の暮らしと文化」上田洋平資料より

上田:まず、上からいきましょうか。

今日別れ明日はあふみと思へども夜やふけぬらむ袖の露けき(紀利貞)

上田:この句は「今日別れ」からはじまります。京都で別れても、明日は近江で会えるじゃないか、という意味です。近江と「あふみ」という言葉がかかっているんですね。

今日別れても明日は会える。そう思いながらも夜がふけて、袖が露でぬれている。実際は、袖は涙でぬれているんだけれど、それを強がりを言って露でぬれていることにしている。そんなお別れの歌です。

しがトコ 亀口:別れの歌なんですね。

上田:次もそうですよ。

さだめなき世にや惜しまむ今日別れ明日はあふみの別れなりとも (花山院師兼)

上田:「今日別れ明日はあふみ」というのがひとつのパターンなんですね。
白洲正子が近江の魅力を「得体の知れぬ」と表現したり、現代を代表する歌人で、熊本で生まれて滋賀の湖南市に育った河野裕子さんは

“たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり”

と詠まれています。この河野裕子さんはもう亡くなられたのですが、最期に詠まれた

“手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が”

という歌もよく知られていますね。

編集者で著述家の松岡正剛さんは、滋賀の湖北をこう表現しています。

“湖北は李朝白磁のようで、寂しいけれども暗くはなく、
しっとりしていても湿っぽくない”

李朝の陶磁器のようなからっとした寂しさがあるんだけれど、それはじめっとしたものではなく、ツヤがあってしっとりした凛とした寂しさであると。

『近江』というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっている ほど、この国が好きである (司馬遼太郎・街道をゆく)

上田:こう言ったのは司馬遼太郎ですね。言語学者の崎山理さんという人の説で、オーストロネシア語の「アワミ」という言葉に「空を映す鏡」という意味がありますが、「近江」はひょっとしたらそこから来てるんじゃないかという話もあります。

「総論近江の暮らしと文化」上田洋平資料より

上田:芭蕉の句“行く春を近江の人とおしみける”を引用して司馬遼太郎が言っているのは、行く春の句は近江じゃなければ成り立たない。

来る春をではダメなんです。あきらめのような‥‥ついて行くのではなく、
ここでずっと見送っている感じが。

しがトコ 亀口:一歩引いたような、切ない感じですね。

上田:地に足はついていながら、自分もその向こうに想像力を向けているというか。琵琶湖の向こうに山があって、あの向こうから何かがやって来る、水の彼方のもやの向こうからめぐり来るものへの思い。そんなものがあるのかもしれませんね。

しがトコ 亀口:いろんな人が「近江」というものに対して、なんとも言えない感情を持って、句に詠んだりしているんですね。

上田:例えばそれが「浪速の人」とか「京都の人」だとやっぱり違ってくるんですよね。

風景と人がシンクロしやすい環境

しがトコ 亀口:そういえば、滋賀の風景を見ていると、文章ではなく詩を書いてみたくなるんですよね。

上田:琵琶湖などの風景と、人の気持ちがシンクロしやすいのかもしれませんね。例えば1時間ぐらいずっと山を見ていると、山の気持ちになってきたりするんです。

しがトコ 亀口:山の気持ち‥‥。はい、わかるような気がします(笑)

上田:ほら、タコやカメレオンって擬態するじゃないですか。白熊もそう。白熊がなぜ白くなったのかって、白いところに住んでいるからでしょう?

でも、それって何が見てるの?自分の目で見て「白くなってやろう」と思って、なった訳じゃないですよね。

しがトコ 亀口:あぁ、確かにそうですね。

上田:タコも、まわりに合わせて体の色を変えますよね。情報が目から入ってくるんでしょうけど、それを見て「よし、あの岩の色になってやろう」というのは多分違うと思うんですよ。じゃあ誰が見てるんだろう?

しがトコ 亀口:ほんとですね。どこの目が見てるんでしょう。

上田:風景を見ているというのも、そういうことなんでしょう。

しがトコ 亀口:まわりに合わせ色を変えるタコと同じようなこと?

上田:目で見た情報が頭で処理されて、絵具を混ぜてその色を作っていたら遅いじゃないですか。身を守るためにはね。白熊がいつから白くなったのか僕は知らないけれど、たまたま白くなったのが生き残ったのかもしれない。でも、

「とんぼのメガネは みずいろメガネ 青いお空を とんだから〜♪」
って言いますよね。

しがトコ 亀口:あ!なるほど〜!とんぼは青い空を飛んだから、みずいろのメガネになったと。

上田:それを本人はどこで把握してるんでしょうね。ペットが飼い主に似るように、見るという感覚が、どこかで作用しているのかもしれませんね。

しがトコ 亀口:滋賀県から生まれるものも、この環境が作用している。

上田:そういうことが不思議なんですよね。見てるっていうのは、本当は何が見ているのか。目だけじゃなく五感とか、内臓感覚とか、意識していない部分が何かを変えていくんだと思います。

琵琶湖がコミュニケーションを広げてくれる

しがトコ 亀口:芭蕉が詠んだ“行く春を近江の人とおしみける”の句は、
去って行く春を近江の人と一緒に味わいたい、という意味でしょうか?

上田:そうですね。芭蕉からしたら、自分は旅人で行きずりの人ですよね。
旅をしてここにやって来て、すぐまた去って行く。でも近江の人はこの場所で自分を迎えてくれる。

あるいは、戦乱などで翻弄されてもどっしりと地に足をつけてここで生きている。そういう奥ゆかしい近江の人と、行きずりの流行のように、来ては去るものが並んで、「春がまた今年も去って行くな」という気分をうたっているのかなと思います。

しがトコ 亀口:例えば滋賀県でも、高島の方に行くとまた見え方が違ってきますよね。シーンとした静かな琵琶湖というか。

上田:そうですね、湖東側は荒々しい感じ。

しがトコ 亀口:はい。海になるとまた違ってくるのかなと思いますし、この奥ゆかしさというのも、見るものに影響されているのかなと思います。

上田:そうですね。コミュニティデザイナーの山崎亮さんが言っていたことですが、日本人は1対1のコミュニケーションが下手ですよね。あいだに何かをはさんでしゃべる。

その点、滋賀県は琵琶湖があるからいいですよね。琵琶湖を間にはさんでコミュニケーションができるよね、って。

しがトコ 亀口:なるほど、おもしろいですね!

上田:確かにそういう面もあるかもしれませんね。イギリス人が天気の話から会話を始めたりするように、今日の琵琶湖の様子から話を始めたり。琵琶湖が媒介になっている。

しがトコ 亀口:しがトコでも琵琶湖というコンテンツひとつで、いろんな切り口の発信ができるなといつも思っています。

上田:窓のように、琵琶湖というものを通して見る、つながるという考え方もあると思います。

食える風景と、食えない風景

しがトコ 亀口:ところで上田先生は、一番記憶に残っている滋賀の風景ってどんなものですか?

上田:好きな風景は、沖島の千円畑です。この写真ですね。

上田:千円畑は、沖島の裏側にあるんです。ここに畑があって、作物が育つでしょう。すぐそばの琵琶湖に真水があって、飲めますよね。琵琶湖ではエリ漁をしている。つまり魚がいてそれを採って食べられる。こっちには雨露をしのぐ屋根もあって‥‥。

「総論近江の暮らしと文化」上田洋平資料より

上田:パッと見た時に、この風景の中で食っていけるんです。

しがトコ 亀口:なるほど、食える風景‥‥!

上田:一方で、これを見てください。

しがトコ 亀口:畑も、水も見えない‥‥食えない風景だと感じますね。

上田:はい。例えば、大昔の人がさっきの千円畑の中にポンと置かれたら
「ここで食える」と思うんじゃないかな。「しかも塩水じゃない、真水があるじゃないか!」って。

台湾の方から渡ってきた縄文人が、初めて琵琶湖を見た時どう思ったでしょうね。目の前は湖で、浜があって、うしろは森林ですよ。トチノキなんかがあって、シジミがいて。

「ここで食える!」と、思ったはずなんです。

貝塚を調べると、一番たくさん出てくるのはトチの実で、魚介ではシジミなんです。トチの実があってシジミがいて、真水と森があって、シカやイノシシもいて魚も採れる。直感的に「食っていける!」と感じますよね。

しがトコ 亀口:そう思うと、食えない風景は、直感的に見ても「食える」ものがない。

上田:分かりやすいですよね。いまは「食う」の意味が変わってきた部分もあるけれど、風景でメシが食えるっていうね。

同じ空間で違う世界に生きる「環世界」

上田:「環世界」という考え方があるんですが。

しがトコ 亀口:環世界、はい。

上田:これは滋賀県立大学初代学長の日高敏隆先生に教わった考え方です。
普通は環境というと「身の回りにあるもの」を思い浮かべますよね。でも、本当にそうなんだろうか、と。

例えば、私達人間と他の動物達と、生きている空間は同じでも、環境の見え方は全然違うんだと。日高先生は、ダニの話で説明されていますが、ダニは木を登って、ポトンと落ちて、血を吸います。

ダニは目が見えないんですね。触覚と、匂い、光は感じることができますが。

しがトコ 亀口:五感で感じるんですね。

上田:それを聞いたら我々は「ダニってなんかみじめなヤツだな」と思うんだけど、彼らは光のある方に向かって行って、触覚を頼りに木に登って、下を動物が通った時に汗の匂いを感じてポトっと落ちる。

落ちた時に温かくて柔らかい感触があったら、動物の上に落ちたなと判断して血を吸うわけです。

上田:そして、お腹がいっぱいになったらポロっと落ちる。失敗しても、また光を頼って木に登る。

これだけ聞くと、機械と一緒じゃないかと思うかもしれません。じゃあダニは機械なのか?と考えた時に、でも彼らは信号を意味あるものとして受け取って、行動している。

人間から見たらみすぼらしい世界を生きているように思えても、彼らは彼らなりに確実に生きて増えるために、他の情報は全部捨てて、これに賭けて生きているわけです。

同じ世界に生きている我々は、そよそよと風が吹いて気持ちいいなとか、綺麗な花だな、いい匂いがするな、とか思うじゃないですか。

でも彼らにとってはそんなものは意味がないんです。生きていくうえで。

しがトコ 亀口:そうですよね。

上田:だけど、彼らは確実に食べて、増えるということを選択している。ということは、同じ環境にいても、それぞれに違う環世界を見ている。

自分達に必要なものを選び取って、その情報でできた世界に生きているということです。

もしカエルがヘビを見て「きれいだな〜、スルスル動いてすごいな〜」なんてのんきに思ってたら、食われるわけじゃないですか。

しがトコ 亀口:そうですね(笑)

上田:カエル達は、ヘビに出会ったら逃げろ!と。それが別に空振りでもいいんです。どんな色をしていようが、どんな匂いを発していようが、関係ない。

生き延びるためには確実さの方が大事。だから彼らにとっての世界と我々にとっての世界は違うということです。

上田:例えば犬にとっては、飼い主が座っているソファは、物理的には存在するかもしれないけれど意味はない。例えばハエはもっと小さいからソファが存在しても意味がない。

だから「環境」と単純に言っても全ての生きものが平等に同じ環境に生きているわけではない。この考え方を環世界と言います。

しがトコ 亀口:はい。

上田:客観的な環境って本当はなくて、みんなそれぞれ環世界というものを生きているんです。ところが人間がおもしろいのは、一人ひとり違う環世界を持っているというところです。

しがトコ 亀口:一人ひとり違う、なるほど。

上田:動物は彼らが持って生まれた身体的な能力の中で環世界をつくるわけです。でも人間ってそれだけじゃなくて、想像力があったり、職業や経験があったりします。

しがトコ 亀口:確かに、そうですね。

上田:そこが人間のおもしろいところなんです。団扇の職人さんが竹を見た時と、私達が竹を見た時に感じるものも全然違う。私達には同じ竹に見えても、職人さんは「これは団扇には使えない、これは使える」という目で見ている。

人間の場合は持って生まれた身体的な感覚だけじゃなくて、職業とか経験とかで見えるものが違う。同じピアノの音でも、その人を好きな人が聞けばどんなに下手でも上手に聞こえる。どんなに静かでも、その人が嫌いならうるさく聞こえる。

しがトコ 亀口:それはあるかもしれないですね(笑)

上田:そういう意味では人間の環世界は一人ずつ違う。それぐらいユニークなんです。

しがトコ 亀口:同じ風景を見ても、人によって違うものを感じるのでしょうか?

上田:一人ひとり独立した感覚を持っていますからね。でも人間は、感じたものを言葉で交換できる。それが厄介でもあるけれど、おもしろいですよね。人によって全然違う感じ方をしている、そういう環世界の豊かさを持っています。

例えば赤ん坊は生まれてきた時が一番いろんなセンスが備わっているけれど、それをだんだん捨てていくわけです。

しがトコ 亀口:子どもを見ていると、そうかもしれません。

上田:お母さんの笑顔に反応するようになって。たくさんの神経細胞のシナプスがあって、それを切って、整理していくわけね。

でも、おもしろいですよね。だって人間の赤ん坊なんて、生まれてきた時に誰かが抱っこしてくれると信じていなければ、この状態では生まれてこないわけです。

しがトコ 亀口:何もできない状態で。

上田:人間は、長い時間をかけてこういう状態になってきたんですね。我々の環世界には空気もあるし、光や温度、音もある。コオロギが求婚のために羽を擦り合わせている、あの音を我々はいい音だなと思って聞くけれど、
アメリカ人は雑音だと思うかもしれない。

なんで人間はそういったものを聞いて嗅いで触れて、味わっているんでしょうね。

しがトコ 亀口:本当、なんででしょう?

上田:だって無駄じゃない?生きるために必要ですか?そういうのって。

しがトコ 亀口:それで思い出しました!東京で仕事をしていた時に、夜道をトボトボ歩いて帰ってたんです。その日はなぜかまわりがすごく明るくて。

何かな、と思って空を見たら満月だったんです。なんか救われたんですよね。そういう「味わう」っていう感覚って、都会で働いている時は忘れてたりするんです。

滋賀で暮らすようになって、その感覚がまた豊かになってきているのを実感します。

「総論近江の暮らしと文化」上田洋平資料より

上田:生き方が変わったので、風景の中に見つけられるものの豊かさというものが、我々は昔の人々よりも少なくなっているのかもしれませんね。
逆に敏感になった部分もあって、違うものに細かく反応するようになっているのかもしれないけれど。

しがトコ 亀口:SNSをやっていると、言葉に敏感になっているような気はします。

上田:例えば、木が何本か植わっているでしょ。同じ種類の木でも、虫がたくさんつく木、つかない木がありますよね。

それぐらい繊細に環境の中の違いを感じ分けて生きているわけです。多分職人さんとかもそう。うどん屋さんもそうですよね。

それぐらい繊細に風景のディテールを感じ分けて、そこで暮らしをつくってきたわけです。

「感覚」がのっぺらぼうになる前に

上田:でも、我々は逆に、環境の方を自分に合わせて変えることができる。
エアコンもそうでしょう?そうするうちに、我々の方が感覚をのっぺらぼうにしているかもしれない。

核ミサイルのボタンを押す感覚と、炊飯器のスイッチを押す感覚。押した結果起こることは全然違うけれど、押す手の感触は同じでしょう?

そういう意味では、我々は感覚を持て余しているのかもしれないし、人間の感覚ってツルツルになっていくのかもしれないですね。

うちの祖父が、「紙はこすれば破れるけれど、手は使った分だけかしこく、丈夫になる」と言っていました。

例えば漁師さんの手や鍛冶屋さんの手は、ゴツゴツした硬い手なんですよ。
でも、その人達はおそらく触ったものの違いを僕らよりもっと繊細に感じ分けたりしますよね。

人間の手は、この一つの手でも、千通りのものを感じ分けることができます。でも、ひょっとしたらその力は、触れる環境が画一になっていくと、
貧しくなっていくかもしれないなと思います。

だから自然の中で何かを感じるとか、毎日変化するとか、多様性にあふれたものと触れ合うことの中で、そういう感覚が戻ってくるのかも。

我々は、快適な環境を人工的に作り、コントロールされた世界を生きています。

でも快適な環境のために、エアコンは排熱を外に出していく。だけど人間としては、ものを感じる力がのっぺらぼうになっていく。

それを「自己家畜化」「セルフドメスティケーション」と言うんですけど、
そういう方向に向かっているのかもしれないし、でもそれは人間の進歩と裏腹なのかも。

しがトコ 亀口:その自己家畜化から解放されるには、どんなことを心がけたらいいんでしょう?

上田:どうしたらいいんでしょう(笑)。結局我々は、自分でコントロールし、環境の方を我々に合わせて変えていく力が大きくなって、今快適なところで暮らしています。

けれどもそういった中で四季の変化とか、日々の違いがある環境に身を置くというのは、やっぱり大事なんだろうなと思います。

今は繊細な違いを感じ分けないと生きていけない時代ではないので、感覚も低下するのかも。でも、我々は「美」という概念を持っている。

しがトコ 亀口:はい、そうですね。

上田:「生きる」とか「食う」に直結するものではないけれども、「美しいなぁ」と思う心は持っています。不思議ですよね。私達、人間の環世界というのはものすごく意味にあふれています。

しがトコ 亀口:意味、ですか。

上田:うん。食える、食えないだけじゃなく、ナンセンスを感じるものもある。滋賀県をぐるっと見回した時に、食える風景が広がっているなと思うことはよくありますね。

「ここで食っていける」と確信させてくれる風景があるわけです。

でもね、我々は食えない風景も美しいと感じるんです。

しがトコ 亀口:都市の夜景もそうですよね。

上田:人間って、不思議な生きものでしょう?動物達はやっぱり物理的に存在するものや刺激に反応して生きているわけです。

一方で人間は、神様はいるかいないか分かりませんよ?でもそういうものがいると信じて行動する人もいるのは確かです。戦争をしたり、助け合ったり。不思議ですよね。

しがトコ 亀口:何かを信じることで、強くなれることもありますね。

上田:だから我々の環世界には、実際に存在するかしないか分からないもの、自ら作り出したもの、すでに居なくなったものや、過去とか未来の存在なども一緒に生きているんですよね。それが、我々にとっての刺激になるわけ。神様の声を聞いたとかね。

しがトコ 亀口:あぁ、なるほど。

上田:それは自分の中の声かもしれないけれど、それに突き動かされることがある。本当に目の前に見える景色がガラリと変わることもある。

‥‥何の話をしてるんでしょう(笑)

しがトコ 亀口:‥‥人が感じる「美」について、ですね。

上田:これが鍛冶屋さんの手です。ハンマーを握り続けているうちに曲がってしまって、形もゴツゴツしている。でも、この手は私の手より繊細です。

しがトコ 亀口:見ためはがっしりしているけれど。

上田:千手観音ってね、本当にあると思うんですよ。

しがトコ 亀口:本当にあるというのは?

上田:この手で千通りもの世界を感じることができるじゃない?私でも。それを形で表現しようと思ったら千手観音になるんじゃないかと思うんです。

しがトコ 亀口:人にはそれだけ多くのものを感じる力があるということですね!

上田:インドの神話に、世界原人というのがいるんです。

しがトコ 亀口:世界原人?

上田:「リグ・ヴェーダ」というインドの神話に出てくる“プルシャ”という存在で‥‥あの、こんな話してていいの(笑)?

しがトコ 亀口:いいんです(笑)。ぜひ続きをお願いします!

上田:世界原人、“プルシャ”には頭が千、手が千、足が千あるといわれています。でも人間って、考えてみたらそうじゃない?この一つの手で千通りもの世界を感じることができる。

一つのものを見ても、そこからいろんなことを感じたり想像したりすることができる。そういう意味では、もう一度原人に戻りたいなと思ったりします。

しがトコ 亀口:逆に今、それが失われてきている部分もありますね。

上田:そう。あらゆるものが新鮮に感じられて、迫ってくるというか、不思議がいっぱいあるというか。

しがトコ 亀口:さっきもお話にでましたが、まさに子どもを見ていると、そうですよね。

上田:で、なんだったっけ(笑)。そうそう、近江世界!つまり、私が考えるコミュニティとか生きていく目的というのは、

「ここで、ともに、無事に、生きていく」こと。

それが我々の究極の願いだと思うんですよ。

しがトコ 亀口:「ここで、ともに、無事に、生きていく」。

(写真:鎌田遥香 文:亀口美穂)

*後編へ続きます


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