看護師に、なりたい。

こんばんは、葛飾区の訪問看護師、重本です。
今回は、私が看護師を志したきっかけと、訪問看護ステーション開設を目標にするまでをお話しします。
少し、昔話にお付き合いください。

私は、広島県広島市で生まれて、物心ついてからはずっと関東で育ちました。

高校の頃、授業をサボって映画館に通ううち、「洋画の字幕に書いてある内容をそのままわかったらとっても楽しいだろうなぁ〜」。
そんな安直な理由で、英語を勉強するため大学進学を決意、猛勉強に励みます。
第一志望は落ちてしまうものの、英語学科に入学できました。

そんな高校のある日。
新聞のテレビ欄で、一本の映画タイトルを目にします。
「病院で死ぬということ」。
今でも何が心に留まったのか記憶にないのですが、その頃の私はそのタイトルに興味をもち、ビデオにタイマー録画をしたのです。
映画は、病院で働く医師が主人公が、死にゆく患者のベッドサイドで苦悩する姿を描いた作品で、病院のシーンと並行して何気ない日常の風景がドキュメンタリータッチで描かれ、とても印象に残っています。ステキな作品でした。
この映画で「緩和ケア」という言葉を知った私は、原作を含む関連書籍を読み漁り、ますます興味をもったのち、もっと知るには現場に行くしかない!と病院でのボランティアに飛び込みます。

病院でのボランティアは続けながら、大学で英語を勉強して、さて就職活動。
ここで私は、とんでもないことに気が付きます。
英語が好きで、英語を勉強するために大学に来たけれど、英語を使って働くことは、考えてなかった……!!

馬鹿でした、我ながら。
とにかくそこで悩んだ私は、当時のボランティアコーディネーターから「あら、じゃあ隣の大学に行けばいいわよ」という天の声を聞きます。

そこで初めて看護を職業として認識した私は、看護師になることを心に決め、のちに妻となる当時の彼女と、自分の両親やきょうだいたちに「ええっ!?」と言われながら、看護大学に進学し、看護師として働き始めたのでした。

病院で看護師として働くうち、いろんなことを考えます。
男性として、社会人として、看護師として、自分の働き方をどうするか……
当時の私は、病院という組織の中で階段を登っていくより、自分の力でどこまでいけるか勝負する方に、魅力を感じました。
そして、緩和ケア病棟で働くなかで、在宅緩和ケアという領域があり、その中で、訪問看護ステーションは看護師が開設することができることを知ります。
「これだ!」目標の定まった瞬間でした。

次回から、「訪問看護ステーションのつくりかた」重本誠之版をお話しします。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

重本 誠之

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