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遠い記憶ーその六ー(のおまけ)

〜前編からの続き〜


自分は、親との約束『高校合格したらアマチュア無線やっていい』を掲げ、晴れて個人で開局、と同時にアマチュア無線部に入部した。よって3年間は存分にアマチュア無線を楽しんだ。国内はもとよりが海外の声も聞こえてくるのだから、楽しくない訳がない。更に、一年生の後半に電信(モールス信号)を扱う免許も取ったので,出力が弱い自局でも交信範囲が広がって、さらに病みつきに。勉強できないくせに将来はどこかの通信士の仕事に就きたいとさえ思っていた。

『そのヨン』で書いたが,無線の免許は小学生で取り、コールサインは中学生で取得していたので、無線部の中でもコールサインだけを見れば、妙にベテランの域(一番古かったかも)でも,実際は運用していなかったのだからペーパードライバーのゴード免許のようなもの。一から先輩諸氏に教えてもらった。

先輩といえば,入って早々,同じ小学校の先輩がいることに気付いた。

 自分が卒業した小学校では、学年縦割り各学年男子女子1名の計12名が、
 1グループのグループ活動が毎週あった。
 自分がいたグループはとても仲が良く楽しかった。

そのグループの一個上のお姉さんがそこにいた。『え〜、もしかてしげちゃん⁉️』って呼ばれた時には、一気に年齢が5歳くらい若返った。16の後輩をチャン付けで呼ぶのだから当然周囲は何が起きたの目線。説明に苦労する先輩。他の小学校では、当時はあまり聞かない活動だったらしい。そんなこともあって一気に部活に馴染んで行った。(この先輩,部内でマドンナ的な存在だったのは後で聞かされた)でもそれ以降先輩から呼ばれる時は、コールサインになったけど(部内ではあだ名かコールサインで呼ぶのが普通)

アマチュアと言っても、周波数によっては海外とも交信できて,オーストリアの局とはよく繋がった。向こうは放送局並みの出力だからガンガンうるさいくらいに聞こえても、こちらの声は向こうで、とても小さくしか聞こえない。なので、声量でカバーすべく、いつも大声を張り上げていた(効果のほどは不明)部室の外にも聞こえるので『あー今日も〇〇が海外とやっているなあ』とすぐに判った。

無線部と言っても使える無線機は数台で交代で利用するから毎日使える事はなく。
そんな時は,屋上で紙を丸め固めたボールで野球をしていた。中学時代野球部だった先輩もいて,本格的だった。時に文化部同士の交流会がありソフトボールをやったりすると,無線部はとても強かった‼️

自宅でも深夜まで無線に興じた。アメリカとか欧州は時差があるので向こうが活発な時間に合わせると必然的に深夜になる。そんなこと構わず交信していたので,勉強する訳がない。先に書いたモールス信号を使えるようになると,認識しやすくなるので交信距離が伸びた。ある時のコンテストでは南アフリカの局とも交信できた。
アマチュア無線では,交信が成立したことを証明する為のQSLカード交換していたので,海外からハガキのカードが届くことがとても嬉しかった。

 ちなみに,表題の写真はお借りした絵ですが、写っている通信機は、当時自宅で使っていたTS-520のシリーズです。同じようにノイズフィルターやSWRメーターも使っていので、自分の机の上のようで懐かしいです。

コンテストも,年に2回は無線部として参加,学校に泊まり込みの合宿だった。先の先輩他、女性陣が作ってくれたお料理「カレーとかおにぎり🍙🍛」は絶品だった。誰かしらが交代交代で徹夜で24時間交信を続けた。残念ながら表彰に至る事はなかったが,県内でも高校の部では上位にいる常連だったらしい。

〜 〜
時を経て、つい昨年,残念なお知らせが届いた。

「校舎の建て替えをきっかけに古くなった部室・アンテナ塔を撤去,合わせて無線部は科学部に統合され,無線部のコールサインは返上する事になった」とのこと。
OBOGが声を上げ、コールサインの存続方法を検討したようだが(高校に母体がない為」当局には受け入れられなかった様子で残念だ

ただ今でも同期の部員の多くと先の先輩とは繋がりが持てていて,もっぱらL*NE上で交信(お喋り)を続けているのは,すごくない⁉️

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