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遠い記憶ーその六ー

前回,「次回は高校編」と宣言したので高校3年間について書こう
長くなりそうなので二編に分ける事にしました。

正直言って,自分にとっての高校時代は性格を悪く暗くした唯一の期間。多分、親も心配したと思う。いつだったか『顔つきが悪くなった』と言われたのも覚えている。

今思うとそれにはいくつかの理由がある。

自分が進学した先はそれなりの進学校で、周りの同級生も賢かった。という自分は,中学の進学指導で“無理宣言”を先生に出されたのを無視して受験したので、かなり背伸びしていた。という事を本人も自覚していた。 
ところが、
入学式が終わり自分のクラスに移動。担任が名前と顔を覚えるために点呼をとった,その時。『シゲくん,あ〜君かあ、○中から補欠で入ってきたんだよね〜』『補欠でも入れば一緒だから〜』。
これを、初対面が多いクラスメートの中で言われた。
言った本人が何を考え何を目的に言ったのか,今でも理解できないが,自分には侮辱&屈辱にしか感じず、その日から、この先生が大嫌いになった。(今でも話したいと思わない)

 この先生、数学の担当だったので当然のように数学の成績は伸びない(聞いてないから当たり前)。それを心配?したのか、親に塾に通わせるように提案。自分の知人の塾を紹介。親の安心の為に納得しないまま通う事に。基本自習の場を与え質問に答えるパターン。やる気のある生徒には効果的だが、何のカリキュラムも無いので自分のように気が向いていない生徒には無駄に時間を拘束されるだけ。結局、他の教科の勉強も進まず、わからない事だらけで、ますます成績は落ちていった。
毎回試験の成績は、後ろから1/4内にいた。その辺りはみんな運動部の生徒で、勉強そっちのけ部活最優先で過ごしている生徒だ。彼らのすごいのは,3年で部活が終わってからの追い上げ,養ってきた集中力は半端ではなかった。

 この先生とは長い付き合いになり2年も担任を受け持たれた。なので一,二年のクラスでのイベントの記憶はほとんど無い。
窓の外の中庭の風景はよ〜く覚えているが。

 この先生と離れたのは三年時。理系を選択したので,男子だけのクラスになった。
何故か,この高校では、この男子クラスは後輩たちからも人気が有り、クラスの纏まりについては同窓生からも一目置かれた。男組=いいなぁの方程式があった。
中にいる自分たちも自由奔放,この時の担任のF先生は懐が広くて細かい所は何も言わない,危険なことと礼儀を欠くことだけは厳しく指導されたが,後は全ては学級委員を中心にした学生自治に任された。運動会の応援合戦や学園祭の出し物などやりたい放題だった。

自分の高校生活が救われたのは、この男組とアマチュア無線にのめり込んだ事だと思う。

言うまでもなく,大学受験は不合格。高校受験同様無鉄砲なチャレンジをした結果である。勉強してこないのだから仕方ない。でも落ちた原因は,数学ではなかった事は書いておきたい。三年の先生も数学担当で手取り足取り教えてもらった。
でも、二年で出遅れた物理と、中学で得意だった社会が苦手になったのは致命傷になった。
次の年,予備校に通い身を入れて勉強した結果,共通テストではそこそこの点をとってしまい。またしても、悪い癖のチャレンジを試みた結果,国公立私立とも全て不合格。二次募集でとある私立に滑り込んだ。

馬鹿だと笑われそうだが、初年も2年目も、通信が発端の電気電子系から目標を変える事なく貫き通した事は自分を褒めてやりたい。学歴はどうであれその結果が,今までの会社生活35年に繋がったと自認している

もしあの時小学生でアマチュア無線の免許を取らなかったら全く違う道を歩んでいただろう

長くなったのでここでおしまい。

冒頭のように次回は高校おまけ編として楽しかった部活(アマチュア無線)の話を少し書こうかな🤔

最後まで読んでいただいてありがとうございました🤗

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