見出し画像

あなたの中の、怒りは何か?

大学は「学校とは誰のために、何のために存在するのか」「理想の教育とは何か」という問題意識をもって、あえての教育学類に進学した。

教師になる人がとる「教職免許」も一応取るつもりで単位は取っていたけど、それはあくまでエクストラ。純粋な「教育学」を学んでみたかったからだ。

真面目に勉強したとは言い難い出席率だったけれど、一応卒論も出したし卒業もした。

でも、
どんな授業よりも、どんな書物よりも
今でもわたしの中に息づいている学び、というか問いが冒頭のやつだ。
「あなたの中の、怒りは何か?」
卒論修論の中間発表のとき、いまいちな発表だった修士の先輩に当時の教官が投げかけていた問い。

「あなたの中の、怒りは何か?」

わたしは…

中学生のころ、没頭していた部活動(吹奏楽部で、マーチング指揮者として全国大会に出場して2年連続金賞を取った)に1秒でも時間を割きたくて、教科書読めばわかるレベルの単調な授業をする教師に反抗していた。

最前列の席で授業中に平然とミサンガを編んでいたり、つまらない授業をする若手教師が教室に入ってこれないように鍵を閉めて立てこもったり。

質問があればするように、と促しがあったので
挙手、指名されてから起立し
「この授業には、何の意味があるのですか?」
と尋ねてみたこともある。

けれども、答えが返ってこないのはおろか
「いまそのことは授業とは関係ないから」と言われ、そのあと職員室に呼び出され、説教。
「そんなに大人をバカにして楽しいか?」と現場を見てもいない中年の生活指導担当に問われ、わたしはひどく傷ついた。
バカにしてるのは、どっちだよ。

怒りの奥底には、悲しみがある。
私はただ、答えて欲しかっただけなのに。
自分が好きだ、やりたいと思えることに、もっと時間を使いたかっただけなのに。

いまだに当時のことを思うと、胸が苦しくなる。

***

決定的な転機となったのは、
心から自分の人生を楽しんでいる大人に出会えたことだった。

こういう大人が教師だったら楽しいのにな。そうか、なら私もこういう風になったらいいのか。

その人ともっと話がしたくて、対等に関わってもらえることが嬉しくて、その人の行った大学に自分も行こうと思い、進学した。

それで、冒頭だ。

そして今、紆余曲折してだけれども、大学時代に授業で知って衝撃を受けた場所に来ている。

サドベリースクール。
生徒とスタッフとが平等に1票の権利を持ち、彼らによって自治される「デモクラティック・スクール」の一例だ。

サドベリースクールの大切にしている考え方の一つに「大人も子どもも対等に接する」「互いを尊重する」という点があり、ここには特に思い入れがあるわたし。

でもその思い入れの強さがあだとなり、対等に!尊重しなくては!と焦ってしまっているのを感じる。

正直「ここに来れば何かが変わるんじゃないか、見えてくるものがあるんじゃないか」という下心がすごい。

でもいまはただ純粋に、目の前で起こること、見聞きすること、そこから触発を受け思い出されること、をこうして記録することで精一杯。

3日後自分は、どんな景色を見ているんだろう。

自由と責任。
そのバランスの取り方に試行錯誤する日々を前にして、緊張と不安とワクワクとが入り混じっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?