駅前

鮫とオオタニと私 (-1)

プロローグに向けた序章

 大卒以外の人生を想像できない、視野の狭い子供でした。

 生活するためにはお金が必要。
 お金を稼ぐためには就職しなくてはならない。
 就職するには大学を出なければならない。

 そういう思想に閉じ込もっていました。大学受験を最初のゴールとして、進学校に通っていました。そして、最初のゴールを越えて大学生になって、周囲を見回してやっと気づいたんです。大卒、就活、正社員、それだけが生き方じゃないって。

学校に行かないなら、働け

 大学を出なくても生きていける。当たり前のことですが、18歳の私には処理できないくらいのパラダイムシフトでした。大学を出るなんて当たり前、できるだけいい大学に行くために課題と模試を繰り返した中高時代。それを否定する概念を飲み込めず、学校に行かないモラトリアムな日々が続きました。

 留年して2度目の3年生の秋。父が「学校に行かないなら、働け」と言いました。同期で入学した友達は4年生で就職活動にいそしみ、そしてほとんど内定をもらっている段階でした。

 10月初旬、コンビニでアルバイト情報誌「FromA」を手にします。その中に、リクルートの求人が載っていました。週5日間のフルタイムワークで、正社員ではないけれど福利厚生完備賞与ありの契約社員。すぐに応募しました。2次面接を経て、11月1日からはカーセンサーのオフィスにいました。

 何ヶ月もかけて内定をもらっていた同期入学生を尻目に「あ、俺リクルートに入ったから」と、先抜けした雰囲気です。

広告の世界にハマったR時代

 1996年11月からの5年間、リクルートで働きました。一番長く時間を費やしたのは、カーセンサー本紙の冒頭に掲載される企画広告やタイアップ記事の制作。もともと文章を書くのは苦じゃないし、本を読むのも好きでした。そしてそれらを超えるほど、クルマが好きでした。とてもいい職場で社会人のスタートを切れたと、今でも感謝しています。環境だけではなく、上司にも恵まれました。

 広告制作は、よほど高次元のものをのぞけば、ゴールが明確で理詰めで攻める余地がある世界でした。○○を売りたい場合、○○のターゲットはどのような層か、その人たちが○○のどこに魅力を感じるか、それをどうアピールするか。そこに私の意見はありません。求められるのは意見ではなく、知見。理屈が整えば効果は出ます。

結婚、独立

 リクルートでは、ある程度の年数勤めて技術を手にした人は、卒業して外注先として活躍することを期待されます。私も、勤め始めてちょうど5年目の契約満了を以て、退職となりました。まあ、当時の上司と会わなかったりゴニョゴニョw 最後はWeb制作のグループにいたのですが、私が退職したら、私が率いていたチームが丸ごと退職しました。うーん、不思議♪

 この退職タイミングが、プライベート的には絶妙でした。退職は2001年10月31日。4日後には、私の結婚式が控えていました。そう、結婚当時私は無職だったのです。寿退社っていう便利な言葉があるので、経歴紹介ではそういうことにしていますけれど(笑)

 さて会社を放り出され、広告制作と生半可なWeb知識しか持たない私にできることと言えば、何でしょう。制作ディレクションは、フリーランスでやるにはハードルが高いように感じました。自分が発注側だった経験から、ディレクションまで外注するイメージがなかったのです。では個別技術はどうでしょう。文章、写真、デザイン……もう答はおわかりですよね。私にできるのは文章を書くことくらいでした。

 消去法で、私はライターの道を歩み始めました。

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