私にとって数学は学問としてだけではなく「世の中の仕組み」を理解するための道具と成った。

『使われているのは、「等しい量から等しい量を引いた残りの量は等しい」という原理である。対頂角が等しいことの証明では、補助線は必要ない。しかし、初等幾何学の魅力の多くは、補助線の発見に依存している。これは、単なる演繹論理では説明がつかない、勘と経験による発見の魅力である。~ところで、補助線というより、むしろ補助図形と言った方がいいような証明の方針もたくさんある。~なんという鮮やかな証明だろうか。中学生だった私は目を見張り感動したものである。盤を白黒の市松で塗り分けるというプロセスは補助線を引くのとは別物かもしれないが、ある種の補助図形を作図することに等しい。この問題を考えることの本質的な部分を見事に表現していると思う。~ところが、嬉しいことに、たった1人の学生だけだったが、見事に証明に成功した。証明方法は以下のとおりだ。~証明とは、こんな発見を楽しむことにほかならないのだと思います。』

私は中学二年の一学期の終わりの数学の時間にある問題を「補助図形」を足して数学の先生の証明の方法ではない方法で証明した。その時以降、その数学の先生の目に留まったのかみるみる数学の成績が上がった。その数学の先生は私にブルーバックスの「ブラックホール」を読んでみてはと提案してくれた。そして私にとって数学は学問としてだけではなく「世の中の仕組み」を理解するための道具と成った。SJ先生ありがとうございました。

数学者を感動させた大学生の「鮮やかすぎる証明」はこうして生まれた
当たり前の事実を納得するために
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66781

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