熟成か?腐敗か?

『ハヤカワ:確かに御田寺さんが言うように、「悲しい」「つらい」「寂しい」といった個人の感情が、ただの感情ではなく「被害」であると捉えられるようになったのは、すごく大きな変化ですね。もちろん本当に被害を受けている人もいるけれども、その一方では個人の主観だけで悲しさや辛さも含めた何でもが「被害」だと言えてしまう危険性もあるし、実際は特定の誰かが悪いわけではなくとも「加害者がいる」という話になる。そういう一線を越えるタイミングが、この数年間で訪れてしまったのかもしれません。政治家や有名人の発言を「失言だ」といってバッシングする時も、よくよくその人の意見を読んでみるとさほど問題ないのに、なかば意図的に誤読して「悪」と認定するようなケースもありますよね。事実を無視して、とにかく自分たちのコミュニティの中で意見が一致していればいい、というのはどうかと私も思います。御田寺:共感は「是々非々で考える」ことを難しくします。仲間が「怒り」や「被害」の意識で堅く結びついている時に、「加害者」とされた対象をきちんと精査して「いや、この人って本当に悪なの?」と言うのは勇気が要ります。ハヤカワ:たとえば、私自身フェミニストを公言していますが、少なくとも今のネットにおける「フェミニズム」の異論を差し挟めないような雰囲気に関しては、疑問を持つようになりました。もちろん私の周囲にもフェミニストの女性が多いのですが、センセーショナルで悪意のある記事見出しを見て怒っているような人には一度落ち着いて話し合おうよ! と思うときもありますし、そのような悪意ある編集によって扇動を行うメディアには意見していきたいと思っています。また、一見異なる視点の意見や批判もきちんと受け止めて乗り越えられないと、広がらないし、継続性も低いのかなと思います。御田寺:議論をする際の作法として、よく「意見と人格は分けて考えろ」と言われますが、その人の主張が当事者性に依拠する場合、これがとても難しくなります。なぜなら、あくまで主張に対する批判であったとしても、主張が人格や経験に基づくものであれば、人格や経験そのものの否定・批判に接続されてしまうため、それ自体が攻撃や加害に見えてしまうからです。少なくともSNSにおけるフェミニズムの雰囲気には「傷つきたくない文化圏」を感じます。向けられた批判が自分たちの怒りや苦しみを否定したり無化したりするものだと思ってしまうから、批判に対して「また私たちを傷つけるつもりか! 許さない!」という反応になってしまう。もちろんこれはフェミニズムに限ったことではないでしょうけれど。~御田寺:特に心配なのは、世間が市民感情で「悪」を設定しこれを吊るし上げる「人治主義」にどんどん進んでいるように見えることです。みんながひとしく「怒り」を向けられるような「悪」が毎日のように探し出されている。「怒り」がネット上で一番ホットな商品、一番盛り上がるエンタメになっている現状を、なんとか変えないといけないんじゃないでしょうか。~ハヤカワ:ライターや経営者に、SNSから有料のnoteとかサロンに移行する人が増えているのも、そういう流れの表れなんでしょうね。実際、コンテンツを有料にすると、誹謗中傷の類はまず現れなくなりますから、私も最近は有料コンテンツに引きこもりがちです。初期のSNSは、何かすごく好きなものがあるとか、何かためになることを発信したいという人が多くて、「怒り」のようなネガティブな感情が主流なコンテンツにはならなかった。多くの人にSNSが普及して参加者が増えるほど、一番手っ取り早く共通項になるのはネガティブな感情だ、ということになってしまったのではないでしょうか。御田寺:「共感」そのものは感情的にニュートラルで、その触媒はポジティブ・ネガティブどちらでもありえるのですが、世の中にはポジティブな話題よりもネガティブな話題のほうが多く出回っている、というのもあるでしょうね。ハヤカワ:でも結局、「怒り」で共感を広めてお互いを潰し合うことがみんなの求めるものなのであれば、やっぱり私のようにそれにストレスを感じてしまう人間は、SNSから距離を置くしかないのかな、と思います。御田寺:今日この対談で重要なのは、フェミニストのハヤカワさんと、ネットのフェミニスト界隈からは「アンチフェミニストの代表のひとり」とされる私が、同じような危機感を持つくらいには「今のネットの状況はまずい」と考えていることだと思います。「人間は共感が高まったときほど分析的思考が弱くなる」という研究があります。残念ながら私たちは生来、共感と論理を両立させるのが苦手な生き物なので、そこをわきまえることが、ネットやSNSとの上手な付き合い方のカギかもしれません。~御田寺:たしかに、主観的な苦しみを訴えている人に対して「あなたの主張は客観的には矛盾している」などと批判したところで、「そうか、間違っていましたか」とはならないし、むしろかえって反発を生むでしょうね。ハヤカワ:私はどちらかというと、男女どちらも性別でレッテルを貼られないような仕組みづくりや、50年後100年後によりよい社会を作るには何をすればいいか、といったことにより関心があるのですが、それは目の前の問題に苦しんでいる人から見れば、いまある不平等や不公正を解決するのが先でしょ?となる。フェミニズムの中にさえ、そういうフェーズの違いはありますから。いまの世の中でさえ、声を上げられない人は本当に多いですから。だから、まずは私にもひとこと言わせてほしい、その後でロジックに行ってくれ、という気持ちを持っている人も多いかもしれないということは、想像しておきたいところです。御田寺:声を上げづらい人も発信できる、実社会ではかき消されるくらいの小さな声を拾えるというのは、政治的な文脈を抜きにして、とても大事なことだと思います。それがインターネットの本来の良さだったはずですし。ですが、それを加害者/被害者の分断や闘争に結びつけず、どうしたら建設的なほうに導けるのか……。立場が違うハヤカワさんに今日一番お聞きしたかったのはこのことです。意見が対立する相手を反射的に「敵」とか「悪」と考えてしまうことをやめるための筋道はあるのでしょうか。ハヤカワ:自分の見知っている狭い範囲の常識を、世間の常識と思っている人が増えているようにも感じます。たとえば大都市で暮らしている人には、「日本には貧困なんてないでしょ」と本気で思っている人も少なくない。想像できないんですよね。でも、私と同世代にも、生活保護を受けている人もいれば、少子化と言われる中、20代で子供を3人育てているという人もいます。「多様性」という言葉は最近よく耳にしますが、「多様性」と一口で言っても、想像する光景が人によって全然違う。やっぱりそれではすれ違うのも当然だし、前提が違う中で議論するから、お互い納得がいかない。私が御田寺さんの本や意見を積極的に読んでいるのも、自分の意見とは相容れない部分があるからです。だからこそ批判として意味があるし、発見がある。意見が違うことも多様性のひとつです。多様な意見があるからこそ、自分が何に気づいていなかったか、どんな人に対して配慮が足りなかったか、気づくことがあります。御田寺:ですが、それが意識的にできる人はかなり少ないですよね。自分と意見を同じくする人びとから論敵とみなされている人とか、あるいは世間からバッシングを受けている人の意見にあえて耳を貸そうとすることは勇気が要ります。しかしそういうバランス感覚を持つ人を一人でも増やすしかないとも思います。感情と分析的な考え方をバランスよく両立できるようなふるまい――アクセルとブレーキを適度に使い分けながら運転するような感覚とでも喩えましょうか。これをみんなが持てるようになればいいなと。もちろん私自身がいつだって十分にできているとも思わないので、自戒を込めてですが。ハヤカワ:感情のあり方は時代背景によっても移ろうものですよね。そういう不安定なものだからこそ大切にしなきゃいけないし、議論の出発点としては重要です。ですが、あらゆる局面において感情を優先して社会の仕組みを変えようとしたり、誰かに罰や制裁を与えるための根拠にしてしまうのは危うさを感じます。御田寺:私にとってもハヤカワさんのような人の意見はブレーキですし、私がハヤカワさんにとってのブレーキになっているなら光栄です。立場や意見が違っても、たまにお互いの考えに耳を傾けて安全運転ができるなら、それに越したことはない。世の中全員が、同じタイミング、同じ方向でアクセルをベタ踏みする必要はありません。多様性とは、自分のなかにブレーキを見つけていくことかもしれない。みんなで気持ちよくアクセルを吹かしているときにブレーキを踏むのは勇気が要りますが、踏まなければいつか事故を起こす――そういう気持ちでネットやSNSを使っていきませんか?と呼びかけていくのが、自分たちに大切な出会いやチャンスを与えてくれたインターネットにできる恩返しなのかもしれない、と最近は考えています。』

人格形成される時期にどれだけ多くの違うヒトビトと過ごしたか?が多様性の幅を決める。この時期に既に格差があるヒトビトが容易にネットという大海原に出没し始めたのだから喜怒哀楽の怒という最も制御し難く幼稚な感情が大手をふるう様に成ったのだ。後は熟成か?腐敗か?

「怒りが最高のエンタメ」と化した令和のネットで、破滅を避ける方法
御田寺圭×ハヤカワ五味 特別対談
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66352

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