更なる「快適」を求める欲望を暴走させてしまうかもしれない。

『恐らく今の日本における「いけにえ」の条件とは、「社会的な悲劇として多くの国民に共有されている事件」の〝根本原因〟であり、かつ「反省の色がないなど人格的に共感できない人物」であるだろう。この2点を満たした場合に、誰もが「国民共通の敵」と断言することができる「パブリック・エネミー(公共敵)」が誕生するのだ。~この部分である意味対照的ともいえるのは、京都アニメーション放火事件の青葉真司容疑者だろう。犠牲者数が圧倒的に多く、社会的な衝撃も極めて大きかったにもかかわらず、青葉容疑者には、不思議なことに飯塚容疑者ほどは憎悪が集中していない。これは、転院前に治療をした医療スタッフに「人からこんなに優しくしてもらったことは今までなかった」という感謝の言葉を伝えていたことが報じられるなど、本人のこれまでの境遇を想像させる重要な情報が度々流れていたこととも無関係ではないと思われる。「パブリック・エネミー(公共敵)」に対する苛烈なまでの殺意の表明は、われわれの社会において、「社会的な悲劇」が「刑事司法制度」の手に余る状況が生まれつつあることを知らしめている。もはや「刑事司法制度」ですら「生温」く「役不足」であると思ってしまう人々の増加は、「国民の総意としての暴力」を作り出そうとする過激なバッシングこそが、われわれの社会の統合を辛うじて可能にする数少ない活路となってしまったことを示しているのだ。~池袋の事件では、「元エリート官僚だからすぐに逮捕されなかった」「容疑者は政権とつながっている」といった疑心暗鬼が直接的な要因にはなったが、おそらくはこの事件の進行過程そのものに、現在の社会の不条理=「法の機能不全」──嘘や不正が公然とまかり通る世の中──が刻印されていることを、少なからぬ人が感じ取ったのだ。重要なのは、「供儀」が暴力の「予防手段」であるのに対し、「法体系」は暴力の「治療手段」であるとジラールは考えていることだ。要するにわたしたちの社会は、見方によっては「法」=「治療」から、「供犠」=「予防」に回帰しているのである。これはわたしたちにとっての脅威の対象が全方位に拡大し、ささいなことにも傷付きやすくなっていることと、少なからず関係している。未開社会における「暴力との戦い」とは、何にも増して「自然の猛威」だった。一方、現代社会における「暴力との戦い」は、「不安な主体」と「遍在するリスク」によって生み出される。どちらも「予防」が魅力的に映る。現在では、脅威の対象となるものが生活のあらゆる領域に顔を出すようになった。社会的なつながりが乏しくなり、経済的安定が不透明になるにつれて、わずかなアクシデントにも「実存を揺るがす脅威」を見い出すようになる。金融不安をあおるネット広告、死を想起させる健康情報、ソーシャルメディアに氾濫するヘイトスピーチと誹謗中傷、富裕層の違法・脱法行為、でたらめな報酬と雇用慣行、友人たちの成功やドロップアウト、「病気不安症」(ヒポコンドリー)の常態化……細々とした事象のすべてが「大小無数の暴力」と化す。このような状況を「国民の総意としての暴力」という幻想で厄介払いし、「予防」に努めようとする狂気に似た振る舞いは、今後ますます顕在化するだろう。いずれにせよ、新たな「いけにえのリスト」は、罪の軽重とは隔絶したところで問答無用に決定され、明日にでも別の誰かを「供犠の対象」に仕立てるかもしれない。』

「世知辛い」世の中に成った元凶は「ストレス耐性の劇的な低下」だと私は考えている。死ぬか生きるかの生活をしていれば外野で起こっている世の中の事件などに興味はなく「明日生きるにはどうしよう!」が一番の興味となるはずだ。快適ではあるが何かしらの不満は必ず起こるのでその「はけ口」として「いけにえ」を叩くことでストレス発散をしているのだ。『「法」=「治療」から、「供犠」=「予防」に回帰しているのである。』との指摘は更なる「快適」を求める欲望を暴走させてしまうかもしれない。

飯塚幸三容疑者を「パブリック・エネミー」に認定した日本社会の病巣
これは現代の「いけにえ」なのか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68670

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