「弱さ」を武器に生き延びてきたイキモノとしてのヒトの業

『「悪」とされた人間をより苛烈に糾弾すればするほど、自分がもし「悪」とされてしまったときのことを想像すると恐怖が強まる。自分がいつでも「ただしい」側で立っているかどうかが不安になってしまう。まさしく皮肉としか言いようがないが、「悪」をみんなで叩き潰し世直しをすれば一時は安心できるが、しかしかえって自分が「ただしい側」にいるのかどうか不安が強まり、その不安を打ち消すためにますます「悪」とされる存在を追い求めるようになる。~「あおり運転」は、これまでだれもが日常で感じうる危険であったがゆえに、これに対する怒りは多くの人に共有されていた。人びとが音もなくしかし着実にため込んでいた「静かな怒り」を一気に噴出させるきっかけとして、今回の犯人はうってつけの人物だった。というのも、「あおり運転をするような奴は、自分勝手で、乱暴で、他人の生命を危険にさらすことを何とも思っていない悪人に違いない」という人びとのイメージにまさしく一致する、画に描いたような男が映像付きで現れたからだ。』

善良である市民が暴徒と化すきっかけとしては「ほら見ろ!悪人は悪人らしい!」と単純化できた時にこそエスカレートする。この群集心理は「弱さ」を武器に生き延びてきたヒトというイキモノの業なのだろう。ここでも「ヒトとしてどうよ?」は最終的に「克己に限る」のだ。

なぜ日本中が「あおり運転男」に怒っているのか
「安心」と「怒り」の対象にうってつけ
https://president.jp/articles/-/29698

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