ヒトは視覚に大きく影響を受ける

『どれもこれも、服装という領域に関わりのある「個性」以外の要素を十分考慮せず、丁寧なヒアリング調査を試みるわけでもなく、「若者たちが似たような服装をしている」すなわち「個性を押し殺している」と短絡し、さらにそれを社会全体の保守化や右傾化の問題へと飛躍させるところが判で押したようにそっくりで、恐ろしい。~私たちの多くがそうであるように、彼らもまた、〈自分らしさ〉の表現をする/しないという一点にこだわって服を買っているわけではないのだ。この点を踏まえると、黒が多かったことの理由として、冠婚葬祭いずれの場面でも身に着けられる色だからではないかと考えることもできる。~さらに付け加えておくと、服装において個性を表現しようとしない人がイコール無個性な人という見方は間違っている。服装は数ある個性の表現の場の一つに過ぎずないのだから。~だから、個性がないとか臆病だとか戦争への第一歩だとかいう批判は、どんなに遅くても20年前までさかのぼり、そこから現在に至るまでの間に紺や黒のリクルートスーツで就職活動に臨んで大学を巣立っていった「若者たち」を対象にするのでなければおかしい。にもかかわらず、何故か、「最近の就活学生の黒いリクルートスーツ」にばかり矛先が向けられる。歴史的な経緯を無視して常に「今の若者」を憂うのが〈若者劣化言説〉の特徴だが、まさしくこれはその典型だろう。~男性は身に着けないような大きなリボンのついたブラウスやカラフルなスーツ。それらが女子大生のリクルートファッションとして推奨されていた時代から、男女とも同じような——礼服のスタンダードである——ダークカラーのリクルートスーツが一般的になった。このことは、就職活動という場において、女性だけが華やかな装いを求められることはなくなったという変化として読み解くこともできる。『JJ』や『Can Cam』の雑誌記事を引き合いに現在のリクルートファッションの「画一化」を嘆いてみせることは、女子学生に対してだけ「80年代の女子大生を見習ってもっと派手に装いなさい」と言っているのと大差ないように思えて、気が引ける。もしも、今、もっと自由で多様なリクルートファッションを求めるなら、それは、ジェンダーバイアスのかかった80年代的「多様性」以外の何かであるべきだろう。~リクルートスーツというものが就職活動における装いのスタンダードとして存在していることを否定する人はいないだろう。そのことの裏返しとして、リクルートスーツを着ないという選択がまだまだ少数派のものであることも確かである。少数派の装いはそれだけで注目を集めやすい。これから訪問する企業の人事担当者が、それを、「自分らしくてよい」と考えてくれるか、「協調性がなさそうだ」と見るか、そもそも服装など大して見ていないか、あるいは、口では「自分らしくていいですね」と言いながら「うちでは採用しないけどね」と心の中で含み笑うか、それは全く予想がつかない。予想がつかない以上、リスク回避としてとりあえずリクルートスーツを身に着けるのは合理的な判断である。~リスク回避を臆病と批判されても、当事者である就活学生からすればただの大きなお世話である。~しかし、結局のところ、どこまで行っても、何らかのコード(規範)に付きまとわれるのが服装である。人の表層を覆うものであるだけに、少数の例外を除いて、それが人からどう見られるかということから完全に自由であることはありえない。社会生活において真っ先に目につく部分であるため、それぞれの場面で、否応なく、それ自体が〈場違い〉かそうでないかを表示する役割を果たしてしまう。英語の「ファッション」にあたるフランス語の「モード(mode)」という言葉がかつては宮廷で守るべき服装の規範や作法を意味していたことにも示される通り、これは、日本だけに限らない、服装の本質である。』

没個性の服装の方が内面や資質をより良く判断できると私は思う。ヒトは視覚に大きく影響を受けるイキモノだからだ。服装でのバイアスを極力排除したリクルートスーツであれば外見での優劣は少なくなる。端からの見た目が不快だからと言って当事者抜きの言説は的を得ていない。

リクルートスーツは「若者画一化の証」だと嘆く人に強く言いたいこと
深く考えずに叩いていませんか?
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65688

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