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さてこの先ヒトビトはどう世界を共有してゆくのか?

『山本がいうように、「自衛隊(軍備)の存在自体はやむを得ない。しかし、あくまでもそれは違憲なのだということを忘れずにいたい」とする主張は、より短く要約すれば「自衛隊は必要だ」と実質的に同じです。しかし、だからといってそれだけを言われると、カチンと来る。そうした心性の構造を分析するために、山本は身もふたもない事実(自衛隊は必要だ)を指す「実体語」が、本当は内容的に同一なのだが外見上は対立的な見た目の「空体語」(だがそれは憲法違反なのだ)によって相対化され、つねに両者のバランスをとる言動が要請される社会として、日本を捉えようとしました。~しかし山本七平の日本論のすごみは、同じものを「戦後」という時代ゆえの特殊性として捉えるではなく、むしろより深い歴史の文脈に根ざす日本の伝統だと考えたところです。いわく、「三島由紀夫氏のあやまりは、今のような状態は戦後の日本のみのことであって、昔はそうでなかったと考えたことでした」。たとえばとして書中で示す例は、明治維新であり敗戦です。幕末に攘夷を唱えた大名や藩士には今日でいうインテリが多く、本気で列強に勝てると考えたとは思われない。むしろ「開国はやむを得ない。しかし、あくまでもそれは不当だと叫ぶ営為も忘れてはならない」という思考様式が、そこでは働いたのではないか。同じものが太平洋戦争の末期に作動すると、「降伏はやむを得ない。しかし、あくまでも神州不滅・国体護持であらねばならない」となり、いたずらに犠牲を増やしたのではないか。――徴兵されフィリピン戦線で自軍の壊滅を見た山本は、そのように考察しました(詳しくは拙著『歴史がおわるまえに』を参照)。興味深いのは山本がさらに筆を進めて、山県やまがた大弐だいにという江戸中期の儒学者の処刑(1767年)に、三島の自決の先駆を見ていることです。山県は儒教思想に基づき、著作で「実権のない名目的君主」(=天皇)と「名目的には君主でなくても、実際には君主であるもの」(=将軍)が並立する徳川レジームに疑問を呈し、そうしたあり方は倫理を堕落させると論じた。それが当時の幕藩体制に許されず命を奪われたのは、「憲法上は戦力でない軍隊」と「しかし事実上は軍隊であるもの」という戦後の二枚舌を告発した三島が憤死したのと、同じだというわけですね。今日の視点でふり返るとこの挿話は、日本社会における空体語と実体語の二重構造が、単に「タテマエとホンネ」のような言論上の表れ方のみでなく、しばしば政治的な意思決定の機構ともかかわっていることを示唆しています。山本自身も多くの史論で述べているように、日本史上ではしばしば幕府のように「厳密に考えると根拠があいまいで、むしろ従前の法秩序(たとえば律令)に違反するかにも見える組織が、なぜか事実上の政権を担う体制」が、長期にわたって続く。私が日本中世史家の東島誠氏との共著『日本の起源』で用いた比喩で言えば、いわば「令外官りょうげのかん」こそが実質的な政策決定を行い、名目上の正式な政府部門よりも力を持ってしまう現象ですが、近日のコロナ禍ではやはり「専門家会議」なる令外官がにわかに設置されて、緊急事態宣言の発令をはじめとする決定を事実上主導しました。存分に実権を振るった後になって、「決めるのはあくまでも政府だから、結果に責任を負うのは私たちではない」などと弁明するメンバーもいましたが、真に受けるお人好しの日本人はまずいません。専門家会議が解散され、法的な根拠のある形に改組された後も、GoTo騒動が可視化したように「国の官邸」と「地方自治体の長」とが、たがいに「私は名目上の責任者にすぎず、実権=真の責任は向こうにある」と言い争う状態は続いています。そうした統治機構上の宿痾は、実は深いところで、この国が長年かけて形作ってきた私たち自身の思考や言動の様式とつながっている。山本はそれを日本教と名づけましたが、問題性を強調するならむしろ「日本病」と呼ぶべきかもしれません。~しかしこの春の世界的なコロナパニックが示したのは、意外に他の先進国にも「日本的」な側面があることでした。実体語と空体語の乖離をゼロにするなら、政府が「あえて感染を容認する」と明言するいわゆる集団免疫戦略になりますが、当初そう表明したイギリスとオランダは民意の反発を浴びて、方針を修正。近い路線を採り(高齢者を防護しつつ)ロックダウンを回避したスウェーデンの実績についても、現状では賛否が分かれ、評価が定まるには時間がかかるものと思われます。パンデミックに対する国際協力の必要性が力説される昨今ですが、そのためには私たちが「共通に向きあう課題」を設定することが不可欠です。過日すでに述べたように、欧米とアジアでは死亡率がまったく違うので、「新型ウィルスの怖さ」は、実は世界に共通ではありません。むしろ危機に直面した際のコミュニケーションの困難こそが、あらゆる国の誰もがつねに抱える問題であり、そのためにこそ理科系や医学の専門家ではなく、人文系の有識者の知見が求められています。~それは「脱イデオロギーの時代」――アメリカの自由主義なりソ連の社会主義なりを手本として、単に見習えばよいとはもはや言えなくなる時節だった1970年代に、山本が説き続けたところでもありました。私の好きな77年のエッセイ「思考人間のすすめ」から、ポストコロナの「本当の課題」をも指し示す文章を引いて、この稿を結びます。”イエスであれマルクスであれ、その予言が的中したか否かは、実は問題ではないのである。問題とすべきは、彼らが常に「言葉によって未来を構成し、その構成された未来に生きつつ、いまの現実に対処して生きて来た」というその点なのである。これができるのは人間であり、動物にはそれができず、人間の進歩とは、実はこの能力すなわち「言葉で未来が構成でき」それで現実に対処できるという能力にだけ由来している。”』

「本音と建て前」はヒトが集団で暮らすのに実は必要だと世界が認め始めたのだと私は思う。なぜならヒトは二項対立では割り切れない「情け」の部分を内包していることが共感として感じられるように成熟してきたからだろう。さてこの先ヒトビトはどう世界を共有してゆくのか?


日本のコロナ対策が“首尾一貫しない”本当の理由〜「実体語と空体語」の呪い
ポストコロナを予見した山本七平
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74533

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