簡単に言えば「調子こいて仲間内で弱いモノいじめばっかりしてきた人類は我慢の後に痛みを忘れてまた調子にのるのか?我慢のあとに辛抱する生活でも幸せを掴めるのか?」の境目の様な気がする。

『このように人間などの宿主に寄生しつつ巧妙に存続し続ける、生物と非生物の境界にあるウイルスに対して、人間は思いのままにできる絶対的な主権的権力を未だ確立していない。そのことを忘れて、ウイルスに打ち勝つと言い切るような考え方を、ここではナイーブな人間中心主義(anthropocenrism)と呼んでいる。まずは、そうしたナイーブな人間中心主義、その延長線上にある自分中心主義が、コロナウイルス危機の問題と、どのように絡み合っているかを見ていきたい。現代は、「人新世(じんしんせい・anthropocene)」と言われる。人間の活動が地球環境に対して不可逆的で重大な影響を与えるようになった時代のことだが、この時代の危機を、「人間と人間以外のものとの関係が人間社会内の権力関係と、どのように相互連関しているのか」という観点から考察していくと、人間中心主義という「種差別主義(speceisism)」、そしてそれと連関する様々な差別主義が危機の根底にあることに気がつく*2。新型コロナ・ウイルスの感染拡大危機もまた、人間中心主義を基軸とするネオリベラル・グローバリゼーションの意図せざる逆説的な帰結であることはおさえておく必要があろう。経済的利益を求め、世界各地で開発に邁進するグローバリゼーションはどのように感染症の拡大をもたらしたか。以下その経緯を振り返ろう。未知のウイルスが人間社会に入ってくる契機を作っているのは、もちろん人間である。麻疹、天然痘、インフルエンザなど、動物起源のウイルスを人間社会に頻繁に持ち込むようになったのは、人間が野生動物を家畜化するようになってからであるし、感染拡大の環境を整えたのは定住農耕に伴う都市化と言われているように、感染症の歴史は文明史とほぼパラレルに進んできた*3。~そして21世紀の現在、グローバル・シティの拡大・過密化とともにジェット機での大量移動(グローバリゼーションの第四波)などによってウイルスがグローバルに感染拡大するための絶好の環境が整えられていた。そこに、過剰な開発に伴う未知のウイルスの感染リスクの増大という条件が加味され、我々は新たなグローバル・パンデミックを経験している*6。特に未知のウイルスによる感染拡大については、開発に伴う森林破壊や気候変動などによる生物多様性喪失が、病原体拡大を防ぐ緩衝機能を果たしていた種の絶滅や病原体を運ぶ宿主や媒介生物の繁殖を招来し、結果として新しいウイルスの人間社会への感染件数を増加させてといると指摘されている*7。~しかし、ネオリベラル・グローバリゼーションが生み出した格差拡大などの矛盾が累積した結果として世界を席巻していた右翼ポピュリズム(自分中心主義)などもあり、社会は国家レベルでも国際レベルでも、こうした危機に有効に対応する能力を既に喪失していたのである。たとえば、イースター(復活祭)の頃までには新型コロナウイルスの感染拡大は収束すると3月時点では楽観的な見通しを表明していたアメリカのトランプ大統領が、1ヶ月後、結果的に感染拡大阻止に失敗したのがわかると、その責任を転嫁する形で「中国寄りで初動を誤った」とWHOを非難しWHOへの拠出金停止を表明したのは、そうしたガバナンス崩壊を象徴する一コマと言ってよい。次に、現在、パンデミックによってネオリベラル・グローバリゼーションは急停止した状態になっているが、「リスク分配における不平等」という問題――誰がパンデミックによるリスクを引き受けることになるか――の構図は、パンデミック以前と、それほど変わらないどころか、むしろより悪化している点もおさえておいた方がよい。BBC、CNNやガーディアン紙などのレポートでも、看護師など患者に直接接触する機会の多いケア・ワーカーや出勤を余儀なくされている清掃業・運搬業・食品販売業(特にレジ係)などの従事者などの社会経済的中下層、エスニック・マイノリティの方が感染リスクが高いことが報告されている*10。加えて、ロックアウトや自粛要請の結果、そうした層の解雇・失職などの社会経済的リスクは著しく高まっており、アメリカでは高額な医療費を負担できないため罹患はほぼ死を意味することになる。この点については、マイク・デイヴィスのエッセイ「疫病の年に」*11などでも指摘されているが、ネオリベラル全盛期にコスト削減のもと医療・社会福祉のセイフティ・ネット解体が進められたところ、今回のパンデミックでとどめを刺された形になっている。加えて、今後、スペイン風邪の時と同様に、医療インフラが脆弱なアフリカなどの地域への感染拡大による甚大な被害も懸念されるところだ。そうしたリスク分配における不平等の拡大に加えて、感染症が過剰に、国家にとっての脅威、安全保障問題とみなされる(生存をかけたゼロサム・ゲーム的な絶対的友敵関係の枠組みの中で捉えられる)ようになると、往々にして、感染者およびその属性、特に国籍、人種等の集団的属性に対する差別が引き起こされるといった問題が起きることになる。(トランプ大統領などが実際にしているように)戦争のメタファーを防疫に動員すると、感染者に対してスティグマ(負の烙印)がおされるように、ウイルスとの「友敵関係」を介して人間社会の分断を進めていくことになる。例えば、HIV/AIDSの時も、初期段階ではゲイに対する差別、次にはアフリカ、特に南部アフリカ諸国の人びとに対する差別をもたらしたことは記憶に新しい。~政治思想の分野では、国家の非常事態(≒例外状態)で決定を下す存在を「主権」とするが、ある意味で、「例外状態を決める主権の所在地は依然として国家にある」ということを、ウイルスがあらためて鮮明にしたとも言えよう。~この事例が示していることは、防疫体制に協力しない者は「人類の敵」として容赦なく標的殺人の対象となる場合があるということであり、対テロ戦争の一齣を想起させる。換言すれば、それは、ポピュリズムを梃子に三権分立を壊しながら行政国家化が進められた延長線上、パンデミックという例外状態を奇貨として仕掛けられたディストピアと言ってもよいだろう。イタリアの思想家ロベルト・エスポジトの着眼点にヒントを得ながら別の見方をするならば、それは政治共同体の過剰な自己免疫反応の暴走状態とも捉えることができよう。こうしたディストピア的状況を通して、パンデミックが現在、炙り出しているのは、今までの生活様式とそれを支えてきた社会経済システムがいかに持続可能性というものと、ほど遠いものであったかという現実だろう。この事態を目の前にしても、安倍政権はまだ経済成長のV字回復云々と言っていることからもわかるように、この危機を契機として社会の仕組みを持続可能なものに根本的に変えなければならないと思っている人は、まだ多くなさそうだ。多くの人は再び加速できると思っているのであろうか。そうした発想が先行するためか、特に日本の場合、そもそも経産官僚出身の西村康稔経済再生担当大臣が新型コロナ対策担当大臣を兼ねている事に象徴されるように、生命よりも(大企業の)経済活動に対するダメージを最小限にしようとする発想が強すぎて、他国と比べても、外出制限をかけるタイミングが遅すぎた上に、その制限の度合いも(補償を出し渋るため)緩すぎた。そのツケがどう出るかは今のところ不透明だが、いずれにせよ、森友・加計問題の時と同様に、現政権関係者は、このコロナ危機についても、時が過ぎるのを待ってやり過ごしてしまえば、なんとかなると思っていたようにみえた。総じて、他国と比べると、日本政府関係者のリスク認識には、かなり強い正常性バイアス(「自分たちは大丈夫」と思い込むリスク過小評価バイアス)が働いている。そうした人たちであれば、もし仮にパンデミックを一時的に乗り越えたとしても、躊躇なく再び加速し、パンデミック再発へと突進していく危険性がある。再加速の先には、気候変動を含め、さまざまな人為的リスクの増大によるエコロジー的破局などが待ち受けている可能性については見て見ぬふりをしながら。付言すれば、経済優先ゆえの対応の遅れから感染拡大の長期化を招き、その上に、気候変動に伴う超巨大台風による水害などが起き、避難した場所での集団感染発生といった複合的危機が生じるといったシナリオも想定しておいた方が良さそうだ。再加速にこだわることに伴う危機の再発や複合的危機の発現を避けるためには、単なる減速ではなく、脱成長(de-growth)モデルへ向けた社会システムのラディカル・トランスフォーメーションが必要とされている*13。脱成長論者が既に主張しているように、もちろん、今回のパンデミックの結果もたらされた「不況」は、オルタナティブとしての「持続可能な脱成長」とは全く別ものであるということは強調しておいた方がよいだろう*14。~脱成長は不況ではないし、まず、現在の感染症による健康リスクのみならず、大量失業や悪化する不平等などの社会的リスクが極端に増大している状況、また社会的距離という名の自己隔離措置をとることを強要されアノミー化した社会は、脱成長論が描く公正で平等な連帯社会といったヴィジョンとは真逆の位置にある*16。逆に、そうしたコロナ危機がもたらした負の状況を前にして、脱成長や脱開発(post-development)を唱えてきた者たちが描いてきたような公正で平等な持続可能な社会への変革がより必要となったとも言えよう。それは、現在の日本とは対極的な、経済成長よりも生命を優先する形で運営される脱成長モデルの社会である。それへの移行は、化石燃料から分散的な再生可能エネルギーへの転換(脱炭素化)、空間的には一極集中した過密都市から分散的な田園都市への転換、よりレジリアントな(弾力に富んだ)地産地消的なサプライ・チェーンへの組み替え、不可逆で破壊的な物質代謝(エコロジカル・フットプリント)を最小限に抑制する形での大量生産・消費・廃棄の生活様式からの脱却などを伴うことになろう。現在、確かにパンデミックによる経済活動の半強制的な減速に伴って二酸化炭素排出は急速に減っているが、それはその場しのぎの意図せざる結果に過ぎず、現在の状態は明らかに社会経済システム的に持続可能ではない。社会システムを根本的に変えて、それを持続可能な形に組み替えていく必要がある。より公正な社会の実現ということで言えば、例えば、スペインではベーシック・インカム政策導入が検討されているように、パンデミックによる社会経済的危機に対応して打ち出された欧米諸国の一律補償金給付や事業主に代わっての賃金支払いの政策は、ベーシック・インカムの制度化への道につながっていく可能性があるようにもみえる*17(人の移動制限における対応の遅れ・緩さでもそうだったが、この点でも日本政府の消極性は他国と比べて例外的に際立っている)。長期的視点から見れば、現在のコロナ危機は、明らかに、そうした変革を実現、推進していくためのチャンスだ。この危機は、外部不経済の拡大に伴う人新世という破局の到来という現実を見ようとしない狭隘な経済成長主義の定型的思考(つまりオリンピックや万博に象徴される過去の高度経済成長の「成功」物語)の呪縛から解き放たれるべき時が来ていることを、我々に教えてくれているのではなかろうか。』

簡単に言えば「調子こいて仲間内で弱いモノいじめばっかりしてきた人類は我慢の後に痛みを忘れてまた調子にのるのか?我慢のあとに辛抱する生活でも幸せを掴めるのか?」の境目の様な気がする。

このままでは「コロナ後」も、危機的な「パンデミック」は繰り返される
世界はオルタナティブへ向かえるか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72016

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