でも避難生活が長引けば排除をした側もやがて臭くなってしまうのです。

『「ご住所はどちらでしょうか?」一見イノセントなこの問いかけは、きわめて巧妙な「玄関払い」でありえます。想像してみてください。これまでの人生でほぼ足を踏み入れたことのないお役所という場所、社会的スティグマをともなう生活保護申請に、いままさに踏みだそうとしているのです。そんな状況で役所の人の口から出た「住所」という言葉をあなたはどう理解するでしょうか。本籍地? 住民票の登録地? 居住地? 三つすべてが同じ人にとっては、何でもない問いでしょう。そもそもそんな区別すら思いつかないかもしれません。でも、ホームレス状態にある人が単独で申請に行けば、十中八九、(かつての)住民票登録地を答えます(はい、彼らにもかつて家はあったのです)。そして、多くの場合、それはいま彼がいる福祉事務所の所管する地域ではありません1。すると、彼にこんな答えが返ってきます。「うちでは申請できないですから、そちらの役所へ行ってくださいね」。絶句して、路上へと踵を返す人がほとんどです。そして彼はもう二度と役所へ足を向けないかもしれません。~なぜ私の頭に「例のやり方」と浮かんだのか、そのわけはもう明らかと思います。ちなみに、生活保護法第19条では居住地のない場合は、現在地の福祉事務所が保護決定、実施を行うとされています。避難所利用にかんして、台東区は事前に住所不定者は受け入れないという決定をしていたようですから、人権の観点からも、災害救助法に照らしてもその不適切さは言うまでもありません。~そしてそのほとんどに路上生活者を避難所から排除する理由として挙げられていたのが、「彼らは臭いから」ということでした。住民税を納めていないからというコメントも見受けられましたが、これはむしろ、臭いから避難所には入れないという主張の根拠薄弱さ、理不尽さを自覚しているからこその、後付けの正当化と私には見えました。煎じ詰めると、自分が過ごすことになる(かもしれない)同じ空間に、悪臭を放つ者たちがいるのは耐えられない。だから、避難所に彼らを受け入れないとする区の判断は正しい。そういうことなのだと思います。これは私には衝撃でした。非常時に避難所を拒否されることは、命の危険さえも意味します。そうした状況下で、体臭を理由に人を閉め出すのはやむを得ない、否、むしろそうすべきだと考える人がこれだけ多数いる。その事実が驚きであり、憂鬱な思いにとらわれました。~お金は後で返せばよいのだから、生活保護を利用してみてはと勧めましたが、「家族に迷惑がかかるから」と、けっして役所に行こうとしませんでした。サラリーマンだった彼には基礎年金と厚生年金まであるのに、住所がないせいで一度も受け取っていなかったのです。家族とのあいだに何があったのか、彼は話しませんでした。たった一度だけ、そんなOさんから電話がかかってきたことがありました。今回と同じように、大型台風が関東を直撃するというニュースが巷を賑わす週末でした。「非通知番号」の表示は私にとっては、「路上のおじさん」たちからの電話です。ごおっーという風のうなりの向こうからOさんの声が聞こえてきました。「申し訳ないのだけど、どこかビジネスホテルを予約してもらえませんか。1時間後にもう一度電話しま……」途中で、電話は切れてしまいました。クレジットカードも携帯番号もない彼には、ホテルを予約することができなかったのです。このときは避難所は設置されませんでしたし、あったとしても彼が身を寄せることはなかったでしょう。後日、ホテル代のことを尋ねると、「まあね」、Oさんはそう言って笑うだけでした。~よかった。安堵しながら駆け寄って、「Oさん!」と声を掛けてみると、そこには見知らぬ中年男性が怪訝そうにこちらを見ています。事情を話すと、「前にここで寝てたじいさんなら、死んだらしいよ」。素っ気ない答えが返ってきました。……ごめんなさい、Oさん。それ以外に私には言葉が見つかりませんでした。~考えてみればそれは当然のことです。住まいがあれば、彼らは私やあなたと何も変わるところはないからです。住まいの有無を除けば、「彼ら」と「私たち」のあいだには何の違いもないのです。彼らが臭いのだとすれば、それは彼らが住まいをもたないからです。裏を返せば、私たちが臭くないのは、私たちに住まいがあるからにすぎません。だとすれば、(これは避難所利用についての差別的対応についてもあてはまることですが)、臭いをめぐる「問題」は、誰一人として路上生活を強いられるようなことがなければ、つまり、誰にたいしてもまず住まいが提供されれば(あるいは、少なくとも最低限の衛生を保つための施設へのアクセスが提供されれば)、そもそも問題ですらないでしょう2。住まいは基本的人権と考えられるべきだと私たちが訴えてきた所以です。それにしてもなぜこれほどまでに私たちは臭いを嫌悪するのでしょうか。いつから私たちはそうなったのでしょう。「においトラブル」を取り上げたNHK『クローズアップ現代+』の放送では、体臭の相談、治療を行うクリニックの医師の言葉として、患者は増え続けている一方、じつはその7割くらいは体臭の強くない人たちだとされていましたが、他人ばかりか自分自身の体臭についても私たちは過敏になっているようで、これは比較的新しい社会傾向です。~今回の避難所への路上生活者の受け入れ拒否とそれを受けての世間の反応はまさしくこの具体例と言えそうですが、近年二つの傾向が呼応するように表面化しているのはなぜなのでしょう。その背景にあるのは、「危険」に対する意識の高まり、そしてそれがもたらす不安や恐怖なのではないかと私は思います。脆弱な状況に置かれた他者の立場を想像する力、他者への共感の欠如ということが言われますが、かならずしもそうとも言えないのではないか。むしろ、私たちには未曾有の危機が目前に迫っているという(目を逸らしたくても逸らせない)明瞭な感覚があって、それがもたらす不安が体臭嫌悪をはじめとする、異質性、多様性、不確定性にたいする不寛容さ、狭量さとして表面に顔を出すのではないでしょうか。』

これも「快適な生活を手に入れたことと引き換えにストレス耐性が劇的に低下した」ことの一端です。いつも綺麗で清潔な暮らしていればちょっとした異臭にさえ過敏に反応し嫌悪をいだき排除へと向かうです。でも避難生活が長引けば排除をした側もやがて臭くなってしまうのです。

「ホームレスは臭いから排除」と言う人が抱えている「強烈な不安」
支援活動に携わる私が見てきたもの
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68182

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?