100年以上前にル・ボンは「群衆」の性質を見極めていた。

『このように世論を指導するものが全くなくなり、同時に一般的信念が解消した、その究極の結果として、あらゆる確信が完全に分裂し、かつ個人の場合と同様、はっきりと直接の利害に関しない事柄に対する群衆の無関心が増大することになった。社会主義のような、主義の問題についても、真に確乎たる信念を有する擁護者は、無学者の層から出るにすぎない。小市民(プチ・ブルジヨワ)や、少しでも教育のある労働者は、あまりにも懐疑的になりすぎた。~今日、討議と分析の前に、およそ意見というものは、威厳を失い、その鋭鋒がたちまち磨滅してしまう。そして、われわれを熱中させることのできるような思想も、ほとんど跡をたっている。現代人は、ますます無関心さに浸透されて行くのだ。~すなわち、群衆が現在のような勢力を持つときに、もしただ一つの意見でも、一般に対し強制的になるほどの威厳を獲得することができるならば、その意見は、やがて非常な圧制力を具えて、その前には、一切のものがただちに屈服せねばならなくなるであろう。そうなれば、自由討議の時代は、永い期間にわたって幕をとじることになろう。ちょうどヘリオガバルス7やチベリウスも、ときたまにはおとなしいこともあったように、群衆は、ときにはおとなしい主人となることがある。しかし、また群衆は、非常に気まぐれでもある。群衆の掌中に陥りかけている文明は、あまりにも偶然に左右されるから、さして永い期間存続することはできない。文明の崩壊期を少しでもおくらせることのできるものがあるとすれば、それは、まさしく、極度に変動しやすい意見と、あらゆる一般的信念に対する群衆の次第に増大しつつある無関心さにほかならないであろう。』

100年以上前にル・ボンは「群衆」の性質を見極めていた。インターネットと言う「全世界的かわら版」を得た「群衆」は沈黙と無関心により一部の「声のでかい」扇動者に自らの生き方をも安易に捧げてしまう。火の粉が自分にかからないとアチチとならないほど鈍感でも生きていけるのが今の世という事か?!残念!

かくも「世論」は移ろいやすく
【5分de名著】ル・ボン『群衆心理』③
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65994

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