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作者と私たち

謝辞

   先日は多くの反響をいただき、ありがとうございました。予想以上に多くの方々に読んでいただいて恐縮の限りです。実は最後の方になればなるほど詳しく書くのを怠ってしまい、書き漏らしていることなど色々あります。今回さらに補足するような内容、炎上沙汰を連ねるようなことをしてもいいわけですが、もうそんなことをしても仕方ありません。私も無責任ながら、「作者の人格と作品との関係性をどう考えるのか」という議論を丸投げしてしまいましたから、改めて私もどう考えたら腑に落ちるような解決が得られるのか、考察してみたいと思います。

ジレンマ

   まずなにが問題になっているのかを確認させてください。ここで扱う問題は作者の人格とその作品との関係です。前記事の話題に合わせるのなら、「sewerslvtは人として問題があったけれど、その事実は果たして彼女の曲に影響を及ぼすのか」という問題になるでしょう。この問題意識をはっきりとさせたところで、曲の作者が私たちにとってどういった存在なのかというところから解答を探っていきます。この難題に面した時、私たちは「この人、曲はいいんだけれどもなんか聴きたくないな…」と言って戸惑ったり、あるいは「曲に罪はない」ということにして保留したり、いろいろな思考を巡らせるかと思います。Spotifyとかですと再生が収益になりますから、その人に収益を与えたくないという意味で聴かないという人はいるでしょう。しかしその理由だけとも限りません。おそらく、なにか聴くという行為がその作品を作った人に対して「同意する」という意味を含んでいるのかもしれません。その人の音楽を楽しむことは、同時にその人の考えにも同調しているという風に考えるようになるわけです。しかしながら「聴く、それはすなわち、作者から与えられた考えにリズムを合わせる(だから作者から悪影響を受けてしまう)ことである」というこの議論に関してはなにかしら前提があるようにも思えるのです。

作者の起源

   第一に「作者の存在」に関して、吟味してみます。私たちは曲を聴くときに「、その作り手としての作者、そして聴き手」というモデルを考えます。そのときに作者は通常、作品の親であってその曲の意味を決定しています。まるで授業のようです。作者は先生で、私たちは生徒としてその授業の内容を一方的に受け取っています。その先生が人格的に問題のある人だったら、それはたまったものではありません。しかし、この例えはあまりにも無理やりすぎないでしょうか。私たちは音楽を聴いているときに必ずしも作者と空間を共にしてはいません。端的にいえば、作者という「先生」は教室にいません。それにもかかわらず、私たちは今、聴いている音楽が誰かによって作られたものだと先に前提しています。つまり「作者-聴き手」の構図を音楽を聴く前から考えているのです(図①)。
   それは当然です。さすがに音楽には、誰かその作り手がいるはずで
す。ただし注目すべきは、どうやってそれを知ったのか、です。授業の場合、先生の存在は簡単に確認できます。オンラインの場合でもやはり顔や声でそこにいるのはわかります。曲の作者の場合はどうでしょうか。TwitterとかでDM送るか、極論、会いに行くとかでしょうか。しかしこれも少しずれています。授業にいる先生と、その人と町でばったり会うのとはまた別の経験であるように思えるからです。重要なのは、”音楽を聴いている際に”その作者の存在を確認するのはどのようにしてかということです。結論から言えば、その音楽を聴くことに他なりません。
   ここまでの議論を通じて、今までの〈作者→リスナー〉の一方通行な構図は解消されました。聴き手はまず聴こえてきた音楽を通じてその作者像を形作ります。その「自分にとっての○○(作者)」が出現して初めて、先述した「作者-曲-聴き手」の構造ができるのです(図②)。その間では様々な意味の共有がなされます。作者は曲を展開させて聴き手にメッセージを届ける一方で、受け取った人はさらに自分の作者像を変えていきます。もちろん、この作者が実際にいるかどうかということも関係ありません。ベートーベンにしてもショパンにしても、結局私たちの知っている音楽家はその人たちの音楽を聴いた経験によって形成された「作者像=自分にとってのベートーベン、ショパン、etc」でしかありません。

図①、図②

音楽鑑賞は普段の生活とは違う態度

   以上のことで確認できたのは、作者がどのようにして、曲を聴いているときの自分の前に姿を現すのかです。実際の作者というのはTwitterにいたり、どこかに住んでいたりします。炎上したり叩かれたりしているかもしれません。客観的な、私たちが色んな方法で存在を確認できるものです。しかもそんなことが当たり前すぎて、「その人の存在を確認する」なんてこと普通しません。このときのアーティストは私たちと同じ仕方で存在しています。
   一方で音楽を聴くときのアーティストはどんな存在でしょうか。音以外の情報はなにも無い状況で、その人物像は音のみを頼りにして形作られていきます。そう考えると、今まで前提してきた作者とその人を取り巻いている話が介入してくるスキはないはずです。「音楽と作者は切り離す」と人が言うときに目指している態度はこれに近いかもしれません。つまり、より詳しく書くならば、「客観的な存在としての作者」「聴覚情報のみで構成された自分の中だけの作者像」とが全く違った仕方で経験されるのです。
   sewerslvtは確かに身体を持った人間としてはかなり難がある人物だったのは間違いありません。しかし彼女の曲を聴くときに現れる彼女はもはや現実世界のその人とは関係ないのです。なぜなら音のみの空間のなかで姿を現すアーティストは、その音のみで構成された、自分の中だけの人物像でしかないからです。


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