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モノとサービス(コンテンツ)の“個別価格”提示で何が変わる?『NOTEのビジネススキーム』は大正解。

①様々なプラットフォーマーが提供し始めたコンテンツのサブスクリプションサービス(定額課金モデル)
➁そしてそれよりずっと前から各種コンテンツ業界で行われていた再販固定価格という売り方。
この二つの販売方法、当たり前のように見えるが、実は消費者のモノやサービスに対する“評価眼(ものさし)育成”を妨げてる……というのが筆者の持論だ。
これ、どういう意味だろうか?

映画業界、ビデオ業界、音楽業界、書籍・出版業界、ゲーム業界。
この全ての業界が確立してきたクリエイティブコンテンツの売り方は、タイトル(作家×コンテンツの同時発売される塊)が違っても均一価格で売るという手法だ。映画の視聴値段……たいてい同じじゃない??書籍については若干価格の幅は生まれてる。それは大抵はページ数とか装丁などのモノ的側面に起因する問題だ。
その作品の作者と内容が素晴らしく才能にあふれていて感動を呼ぶ作品であるかどうか?あるいは市場との需給関係?等は関係なく、価格に大きな差が出ないしくみだ。

書籍以外のCD、DVD、BD、ゲームタイトルなども同様。
旧タイトルはプライスダウンして発売したりするが、基本価格はコンテンツ業界の決めた再販価格と小売流通側の駆け引きだけで決まる。
Amazonが再販価格をぶち壊して、安売りできるようになってきているが、それは購入する作家やアーチストの意向や評価とは関係がない。我々は超傑作・名作と呼ばれる映画や音楽やゲームも、駄作と酷評されるC級作品も同じ値段を払って買っているのだ。

CDアルバムであれば国内正規再販価格は3800円、Blu-rayDiskの新譜であれば3500円~5200円、新書本書籍であれば800円~1500円、AmazonのデジタルalbumDL2000円~2500円、などのように作者の知名度や評価や希少性・発行部数とかに関わらず、モノと販売形態によって大筋の価格が決まっている。
これが、サブスクリプションサービスになるともっと割切った構成だ。
月額課金は固定なので、どれをどれだけ沢山視聴しようが消費者が支払う金額は一定だ。

一見ユーザー/オーディエンス志向の素晴らしいことのように見える。しかし、今の世の中の消費の動きを見てると、この流通事業者やプラットフォーマーが決めてきた方法論が『消費のものさし』『生活者のサブカルチャーやアートへの関与度・理解・リテラシー』を破壊してしまった。

筆者が子供~青春時代を過ごしたのは1970~80年代。
今のようにインターネットというチャネルがなくて、情報やモノが今ほど溢れていなかった時代だ。
この時代も流通やコンテンツサプライヤー(当時はそんな言い方はなかったけど)の発想は今と似たようなものだった。
しかし、インターネットやSNSと言った情報源が無かったので、コンテンツを買う決断をするのに大変な検討プロセスと決断力を使った。
そもそもコンテンツ(作品)を手に入れるには、まず専門ショップまで足を運んで、財布から現金を取り出して購入、商品を持ち帰ってレコードプレイヤーにかけて初めて聞ける……などの物理的なプロセスが必要だった。
音楽のレコードやCDに関して言うと購入前に『試聴すらもできない』ケースが多かった。なので、レコードジャケットを穴のあくほど眺め、想像力を最大限発揮して、様々な思いを巡らせながら、正に清水の舞台から飛び降りるように買っていたものだ。

この時代は素晴らしかった!とか、回顧主義の老人のたわごとを言うつもりはない。しかし確実に言えるのは、一個一個の作品を買うのに自分のお財布を痛めて、失敗して後悔したり、購入検討に時間をかけたりしたことがサブカルチャーの“ものさし”をつくり、土壌を生み出した……ということ。
それは、
コンテンツ  = 作家/クリエイターが生み出す創造物
に対する
強い思い入れと理解、選定・判断のものさし
が培われたということだ。

僕はすれっからしのサブカルファンなので、ずっと、最近の若者はなんでこんなにサブカルチャーへの思い入れとか、テイストの違いの議論とかしないのだ!!と感じてた。
でもその理由が分かった気がしてる。
コンテンツ業界自体がコンテンツへの思い入れを失って、全てのタイトルを並列に並べて、均一価格で売っている。思い入れのあるオタク(専門家?)によるSNS発信はあるものの、情報はフラットで、『売れてる売れてない』程度の情報しかない。
仮に誰かが『これは千年に一度の名作だ!』と叫んでもそのコンテンツの値段が100倍になるわけじゃない。あるいは最低の駄作だ!と評価された作品も10円で買えるわけでもない
(シェアエコノミーのリサイクル販売ではその傾向は出てきてるけどね。)

今の世の中のしくみだと、コンテンツを買う側にとって参考になるのはジャンル分類とランキングぐらい。あとはSNSからの情報。しかも配信型になったので、例えば音楽であればアルバム単位ではなく楽曲単位でダウンロード。
サブスクリプションにおいては、ジャンルの制限もなくて、定額で自由にお聞きください!という提供スタイルだ。
昔のサブカルファンは、どのアーチストがどのアーチストに影響を与えて、誰が誰をリスペクトして、このバンドはXXX年に空中分解して、二つの派閥にわかれた!!とか……音楽タイトル単体というよりも、まさにクリエイター文化とテイストを楽しんでた気がする。これが単発のタイトル情報に切り出されて細分化されてしまったのが今だ。
例えばアニメ、ゲーム、コスプレオタクの世界だとまだこういうのは残ってるのかもしれない。でも、マジョリティに所属する人々はサブカルを構造的・歴史的に楽しむやり方を捨ててるよね。

今の業界やプラットフォーマーのやり方では
これから“クリエイティブ”に親しむ若い客層から見ると、全ての作品が横並びに見えてしまい、自分が聴きたいものを“選び取る…選定するものさし”が提供されないのだ。

人というのは、
苦労して比較検討して選んで、自分のお金を払ったものに対しては思い入れが湧くし、色々な学習をしてゆく。

ある程度自分の中に“ものさし”が出来上がった人であれば
『さぁ!定額で自由に聴いてください』というのは嬉しいが、
ものさしができてない人にはそれは酷だ。ひとつひとつに値段をつけて、
価値を説明しながら売るべきだ。

『さぁ!どれでも自由に選んでね!』と言うと、
人は手近な聞きやすい・害のないモノをサラッと舐めておく方向に走り、入れ込んで聞く方向に進まない。このことが、サブカルチャー消費をスポイルしているように思えてならない。そんなこんなで、価値のものさしが明確でないオーディエンスが育って今度は“彼ら”がビジネスサイドに回る。

そして……彼らは、またコンテンツを定額で横並びに並べる。
どれだけ視聴しても月額3000円!!オトクですよ!』

長くなっちゃったけど
タイトルに謳ったNOTEの話に戻る!

NOTEの課金スキームはこのやり方に対する唯一の解決法だと思ってるのだ。クリエイター側が自分で値段を決めて売れるしくみ。もちろん評価が低ければダウンロードのロットは捌けないはずなので、値段を下げざるをえない。自動的に相場価格が形成されていくだろう。特定のコンテンツを過大に評価する人が登場して、値段を吊り上げるケースが有っても良い。中古・骨董品業界ではよくある話だ。
できれば権利を持つクリエイター・著者の承諾を得れば再販して利益を得ても良いくらいまで持っていきたいね。
そうなるともう新しい流通業だ。

何よりも、
①発信者側が価格を決められること、
②オーディエンス側も価格への先入観をもたずに『適正だと思えば1万円でも払うし、ダメだと思えば10円も出さない』という観点で消費すること。

この二つが重要だと思う。NOTEのモデルがグローバルで普及してゆくとを願ってやまない。