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第2回 「努力なしで得られる超能力」作品は若者の堕落か。

 クリエイターの集まるイベントに参加して、打ち上げなんかで雑談してるとですね。意外とクリエイターにも言われるんですよ。「最近の作品は……」ってやつを。 典型的なのを挙げるとこういうのです。

「今の若者は努力が嫌いである。だから修行などではなく、生まれつきか何の努力もなく超能力を急に身に着ける展開が今は多い」

 こういうのを聞くと喜んで同調するタイプの人と、とりあえず反例を思い出そうとするタイプがいます。私は後者です。有名どころでいえばスパイダーマンですね。彼はオタク少年が蜘蛛に咬まれて急になったヒーローです。スーパーマンは生まれつきで、本来そのパロディであるパーマンは宇宙人から急にセットをもらってなるヒーローであり……。そもそも「日常でぱっとしない人が実はヒーロー」という、いわゆるギャップの魅力を狙ったヒーローの定番なわけです。

 で、私はこういうのはもっと作劇上の都合から考えていった方がいいと思うんですね。

 歴史的なことを言えば、ヒーローは変身の理由付けとして、最初は「正体を隠している」というのが一般的でした。スーパーマンやバットマンや月光仮面は、ただ正体を隠すために変身しているのであって、別に変身した状態の方が強いわけではなかったのです。彼らの変身は、いわば変装に過ぎませんでした。

 その後、仮面ライダーなど「変身している時の方が強い」というヒーローが生み出されていきました。今はこっちの方が主流です。物語を作る上で、ただ変身前というだけで主人公のピンチを設定できるというのは非常に便利です。しかし人間は、鍛えれば強くなれても「強くなったり弱くなったりする」という能力は身に付けません。自然界は進化の過程で「弱くなれる」という無意味な形質を獲得させなかったのです。

 こう考えていくと「変身能力があるキャラクターを考える」=「実在しない方法で強くなる理屈を考える」であることが分かります。特殊な蜘蛛に咬まれる、謎の組織にさらわれて改造される、宇宙人に変身アイテムをもらうといったことです。

 こうした設定はしばしば、能力を得る側の努力を必要としません。ここに結び付けて「それは最近の若者が努力嫌いだからだ!」という現代批判が生まれます。しかし、努力が称えられるのはそもそも努力が苦痛だからこそ、その苦痛に耐える忍耐力が称えられるわけです。つまり昔からずっと人間は、基本的には努力嫌いだったのです。

 むしろ、作品の幅を広げるための利便性によるものと考えるのが妥当ではないでしょうか。

 たとえば、ある漫画の世界に登場する”超能力”が忍術の一種とされている場合、およそ忍術修行などするはずもないような経歴・性格の人物を戦闘キャラに登場させることはできなくなります。しかし「普通の人にもとつぜん超能力を与えてくる何か」が存在する世界なら、どんな性格・経歴の敵も出すことができるので、ものすごく話の幅が広がっていきます。

 作家たちが魅入られるのは、こういう可能性であると思うのです。

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