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ふたりで会っている。

私は人と2人で会うのがにがて。目の前の人、の前には私しかいないと思うと、一瞬たりとも気を抜けず、全部の話にコメントせねばならないと過剰に気負ってしまう。しかしこんな態度は他者と過ごす上で全然サステナブルじゃないので極力肩の力を抜いて、家族の前にいるのと同じようにリラックスした自分になろうと努める。でも私は、リラックスすると相手の話を聞いている途中で完全に別のことを考えてしまう。だから、努めてリラックスしながらも相手の話を聞き漏らさないようにと、本来の私なら両立し得ないはずのことを両立させようとする。なので邂逅を済ませて別れる頃には全身クタクタ、特に首や肩はバッキバキのゴッリゴリになっている。そんなわけで、数年前から私は、他者の前でより誠実な自分を保つためにも、どんなに好きで、どんなに親しい相手とも、なるべく複数人で会うように心がけている。

ところがここ最近はさまざまな成り行きで、そんなにちょくちょくは会わないけど、その存在がとても好きな友人たちと、2人だけで会うことが続いている。相手の対面に座ると、やはりベストな自分の持っていきどころに内心延々と悩んでいる。手を組んでみたり、頬杖をついてみたり、相手の目をみたり、あんまりじっと見過ぎてもあれかなと視線を外してみたり。あらゆることをやるんだけど、やっぱりぜんぜん落ち着かない。相手にもどこかよそを向いたりしてほしい。しかし私の友人たちも皆誠実で人格者なのでそんな失礼なことはしない。私を見て、私に向かって話す。仕方がないので(というのも失礼な話なんだけど)、落ち着かないながらもそんなことはない様子を装って話を続ける。心地よいキャッチボールを繰り返しながら、より深い話に繋がるフックを探して。で、別れる頃にはやっぱり例によってクタクタで、バキバキでゴリゴリなんだけど、一方で、全身で挑むこのタイマンの時間によって、確実に、相手のことが前日までとは比にならないほど愛おしくなっているのだ。これには正直驚いた。いや考えてみれば当たり前のことなんだけど、よほど必要でない限り誰かとサシで会うことを極力回避してきた私にとっては思いがけない再発見であった。複数人で会うとどうしても表層で終わらざるを得ないところを、2人で会って数時間話すと、好きなだけ深められる。なんだ、いいじゃないか、2人!
今週初めに会った友人とは、日本語にない言葉についての話をした。これだけ生活や考え方が多様化してるのにその先々で生じる思いや出来事を正確に表す言葉が日本語にないことがままあって、それによって思考や行動が制限されてるよね、と。今週半ばに会った友人とは、お互いのこれまでの喧嘩自慢や、自慢の下ネタを。そして別の友人とは、お互いの家族のことや仕事のことを話した。会う前には、そんな話になるとは微塵も思わないことを、とりとめもなく話す。そうすることによって見えてくる相手の輪郭、またその人の前にいることで表出する自分自身の輪郭をぼんやりとトレースしていくのは、実は結構面白い。
実は、なんてさもここ最近知ったように言っているけれど実際は忘れてるだけで、はじまりのときというのは大体いつもそうだったに違いない。初めて東京に出てきたとき。初めて母でも妻でもない私として社会に出たとき。環境が変わるたびに、全力勝負のタイマンに挑んで、クタクタになりつつも、少なくともその瞬間の人生において、かけがえのない関係性を獲得してきた、ような気がする。

いやーほんっと愛おしいなー、と感じられる他人が日々、ひとりまたひとりと増えていくというのは何にも増してライフイズビューティフルを疑いなく実感させてくれるもので、私は疲れることを極力したくないな、と思うんだけど、とはいえ、疲れることと引き換えに得られるものの価値、案外無視できないな、ということをあらためて感じている。

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