鼓膜が破れて、赤マルの箱を買った今年。

12月23日
彼女の話をしよう。
イブイブを迎えて浮かれ気分の恋人たち。彼女とその恋人も例外ではなかった。彼女は恋人に耳掃除をねだり、いつも通りこころよく承諾された。右耳では"CHRISTMAS JAZZ"と書かれたプレイリストを聴き、左耳ではこそこそと綿棒の動く音を聞いた。
突然の痛みを感じたのは、右の耳掃除も終盤であった。
もう一度言う。彼女たちは世の恋人たちに漏れず浮かれていた。夕食には美味しいハンバーグと少しのワインを頂いていた。
彼女は悶えた。対して恋人は、え、そんなに痛かった?と疑問を投げかけてくる。気分を害した彼女は、大げさにリアクションしておいた。

12月24日
クリスマスイブ。恋人の家でパーティーが催された。彼女たちも含め4組のカップルが参加した。ビールで乾杯し、ホットワインでお開きになった。一番おいしかったのはクリスマス限定の贅沢カニのピザだった。
彼女は帰る間際、耳に違和感を覚えた。恋人を粗雑に扱うくらいには機嫌が悪い。負けじと恋人も癇癪を起こした。少しの緊張感と気遣いを置いて、皆帰っていった。
上手く眠れず、彼女は次の日のバイトに遅刻した。

12月27日
昼は大学に赴き年内の研究納めをした。夜の忘年会前に耳鼻科に行った。
前日の朝、耳鼻科にはインフルエンザかもしくはコロナの疑いのある多くの子供がいた。彼女は一時間近く待ったが、次の予定までの時間が迫っていたためキャンセルして帰った。
医者は丁寧に状態を絵に描いて説明し、大事はない、といった。そして、こうとも言った。
「鼓膜は破れている」

こうして、彼女は22歳の年の瀬に恋人に鼓膜を破かれる不運な女となり、彼は恋人の鼓膜を破いてしまった不運な男となった。

この話に、蛇足を加える。

彼女が12月29日に読み始め、ちょうど12月30日に読み終えた小説の一節を引用する。

ところがある夜、僕は耳掃除の最中にくしゃみをした。そしてその瞬間に両方の耳がほとんど聞こえなくなってしまった。

村上春樹「1973年のピンボール」

何故このタイミングでこの本を読む気になったのか、分からない。
返却期限が12月28日の本たちを見送るついでに、たまたま手頃な小説として手に取っただけだ。お昼のおにぎりの味を決めるみたいに、軽い気持ちで選んだだけ。帯に「この小説では耳掃除して病院に行く描写があります」と書いてあったわけでもなく。

村上春樹はまた別の本でこうも言っていた。「人生に脈絡なんてない」

そうえいば、彼女がこの夏に初めて買ったタバコは、この冬に見たドラマ”First Love 初恋”の”並木晴道”と同じ赤マルの、しかも箱だった。そのドラマでは運命を語っていた。「やっぱり、僕は運命ってあると思う」

今年が終わる頃、彼女は鼓膜を破いただけだ。ただ、その事実があるだけだ。本や映画の世界と繋がりがある、とか、全ては彼女の勝手な妄想に過ぎない。
しかし、いま、彼女は恋人が鼓膜を破いてくれたことに怒ってなどいないし、少なからず感謝さえしているのだ。

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