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何かを渡すために人は人に出会う

春はよく出会いと別れの季節だと言われていますが、まさに春真っただ中のこの4月に改めて「人が人と出会う意味」について考えてみました。

出会いって、すごくよくわかんないものです。

「なんでこの人と出会ったのか? 」とか「なんでこの人と時間を共にするのか」とか。

そういう「出会い」という奇跡が、ただ「ここが合わなかった」とか「いつの間かすれ違ってしまって結果として最悪だった」とか、そういう「結論」だけに出会いの意味を集約させるのは何か違うといつも思ってきました。

そうじゃなくて、その出会いから贈られたものは何かあるんじゃないか?

そういう想いを文章にしました。

人ってそれこそ一歩外に出た時に無数の出会いがあります。電車の横に立っている名前も知らない人、そして喫茶店に入った時に注文を取りにきてくれる店員さんなど。

僕たちが出会うその多くの「出会い」は、いわゆる素通りという形でそれぞれが先に進んでいきます。そして多分、そういうものを世間一般的には「出会い」という言葉で表すものではないのでしょう。

出会いには、素通りの出会いと特別な出会いがある。

その特別な出会いというのは、その人が大切にしている何かを渡されたり、自分が大切にしている何かを渡した時に始まっていきます。

たとえば、なんとも思わない人に「休みの日何してるの?」と聞かれたら、僕たちはすごく薄情だけど「いや、別に何も面白いことしていないよ」と答えます。でも、その人に何かを感じ、好意が起こりそうな相手に対してはその何気ない質問に対しても脳みそを全部動員して「特別な答え」をひねり出そうとします。

そして、その人との仲が「自然」になり、相手からの質問に対してもそんなに力を入れないで答えていく時間も訪れてきます。

ときめかなくなったら「特別な出会い」の時間は終わるのか。

僕はそれはNOだと思います。

以下、昨日Twitterでつぶやいたことをメモ的に載せて残しておきたいと思います。

人は自分が知らない間に、大切にしなければいけない「何か」を手渡される。

そして、その大切な「何か」を誰かに渡すためにある特別な出会いがある。

出会いにおいて傷が残っている人は

・この人が何を私に渡そうとしたのかわからなかった

・この人が渡してくれようとしたものを私は上手く取り扱うことができなかった

そういう傷はいつまでも残ります。

でも、その人から渡されたものはその人で完成させる必要はなく、続いて持ち続けるために渡される。

ある人が作った歌はそこで完成・完結させることが目的なのではなく、その歌を聞き、その歌を受け取った人がまた自分なりの歌を作っていく。

その「手渡し」の作業にこそ重要な意味がある。

自分の手だけで完成させる必要はない。

その感覚を知っているだけで、何かを取り扱うことに勇気が出る。

不安や心配が強い人は今自分が持っているものをひとりで完成させていかなければいけないというプレッシャーを背負い過ぎています。

ひとりで完成させるのではなくて、続けていく。

「ただ続いていく」

とつぶやくと、独りよがりな想いは消えて、自分のやるべきことに取り組んでいけるようになる。

※amebaブログ掲載の文章をnote向けに加筆・修正して掲載しています。

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