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昔話の語法

こんにちは。しかないかよこです。

私は、今、小澤俊夫先生の昔話大学の入門コースで学んでいます。

春からコロナ禍のため休講していましたが、オンライン授業になりました。
昨日は、その授業の配信がありました。

いつもは、大きな会場で眠気と闘いながらお話を伺います。
オンラインになって良いのは、眠気にまけても大丈夫。
また、聞き直せます。
そして、わからないところも何度も、聞くことができます。
今回は、80分の講義が4つありますが、まずは1講座を視聴しました。
そして、夜に一緒に受講しているメンバーでオンラインで集まり、
それぞれ感じたことをシェアしました。

せっかくなので、感じたことを備忘録として残しておきたいと思います。

テキストは、『昔話の語法』福音館書店。
簡単に紹介すると、昔話を子どもたちに語りつぐために、昔話の語法を理論としてきちんとまとめられた本です。

私が今回学んだ中で、一番印象的だったのは、以下の箇所です。

「人はだれでも恩寵を受けた存在でありうる。昔ばなしはその意味で、明るい人生を語っている。人間の存在の深いところで、人間は明るい人生を持っているのだ、本来恩寵を受けている存在なのだということを人に確信させてくれる、そういう物語だと思います。」 『昔話の語法』P.258より引用

これは、「なら梨とり」のお話をベースに説明されていました。
「なら梨とり」をはじめ、昔ばなしの世界では、よく3人兄弟がでてきて、だいたい、末っ子が成功します。これは、なにも、末っ子が知恵がある、恵まれている、選ばれたという理由ではありません。兄たちよりも体力知力で劣っているけれど、劣っている子がやがて逆転して力をだしていくということが昔ばなしでは語られているのだと思います。

私自身、兄弟の一番上ですが、三人兄弟のおはなしをきいて、「これだから一番上の私はだめ」なんて考えたことはありません。主人公の末っ子の気持ちになって、お話に入り込み、ドキドキはらはらして楽しんでいました。

そして、どうして末っ子ばかりが活躍するのか?に関して、小澤先生がメルフェンの様式理論を学んだマックス・リュティ先生に質問した時のことをお話してくださいました。

小澤先生がリュティ先生に「なぜ、末っ子が主人公になるのですか?」と質問すると、リュティ先生は「人はだれでも、一度は末っ子だったではないか」と答えられたそうです。

なるほど!と思いました。「人はだれでも、一度は末っ子」です。
私もほんの1年半ですが、末っ子でした。

それゆえに、人はだれでも昔ばなしの主人公になりうるというわけです。

そして、夜のシェア会の時に、『母の友』10月号の特集の話になりました。小澤先生の「今だから、昔話」というインタビュー記事が掲載されています。

(『母の友』は、子どもたちの通った幼稚園で定期購読できたので、21歳の長男が幼稚園の時に読み始め、子どもたちが通う間は毎月、読んでいました。アメリカに行くときに定期購読をやめたので、久しぶりに手にとりました。)

その記事の中で、「声で聞く」ことの大切さを小澤先生は語られていました。そして、本当の「話し上手」とは、人の話を真剣に聞いて、気持ちをくみとってくれる人のこととありました。子どもの話を真剣にきいてあげると、子ども自身が「自分の言葉が誰かに届いた」感じ、その体験がものすごく大切とご紹介されていました。

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1930年生まれで戦禍をくぐり抜けていらっしゃった小澤先生のおはなしは、昔ばなしの講義を通して、私の胸に響きます。

「人間は明るい人生を持っているのだ、本来恩寵を受けている存在なのだ」と語りかける昔ばなしを耳で聞くことは、大人になった今でも癒しになるということに気づきました。

小澤俊夫先生が昔話の解説をされているラジオです。とってもおすすめです。



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