FicS通信vol.14:人から認められたいという思いについて

先日から婚姻届・交際届サービスなるものをはじめました。きっかけはFセクの友人と話していたとき、何をきっかけか忘れてしまったのですが「付き合っている事を人に認められたい!」と彼女が言ったことによります。それ例えば私でもいいの?と言ったら(別に彼女が付き合っている事を否定してはいませんでしたが)「いい!」とのことで。なるほど、じゃあそういうサービスやってみるか?とアンケートを取りましたら予想以上の数をお答えいただき、「え?こんなに認められたい人いるの?」と純粋に疑問に思いました。

というのも、私は常々言っているように自己完結型恋愛人間なので、他人から認めてもらうというのは興味がなかったのです。でもよく考えれば、結婚という形はある意味神様や家族、親類、友人などからの承認を得る儀式なんですよね。つまり2人が付き合うことは認められて然るべき事である、みたいな風潮があるのでしょうか。

そこでツイッターで、改めて「付き合っていることを認められて欲しいか」というアンケートを募集してみました。

このアンケートをツイート後、マシュマロで「認められたくなくても否定されなければいいです」というご意見も頂いたので以下の項目を追加してみました。

認められたい方が半数を占めました。それと否定されなければいいという方もそこそこ。

なるほど。私が思ったより多いですね。

認められる、つまり承認というものには、二種類あるそうです。

承認欲求は承認されたい対象によって、おおむね2つのタイプに大別される。ひとつは他人から認められたいという欲求であり、もうひとつは自分の存在が理想とする自己像と重なるか、あるいはもっと単純に今の自分に満足しているか、という基準で自分自身を判断することである。前者を他者承認と呼び、後者を自己承認と呼ぶ。
――「承認欲求」Wikipedia

他者に自分を認められたいのか、自分で自分を認めたいのか。

中には自分で自分を認めたいのに認められないから、他者からの承認を求めてしまう人もいるようで。そこははっきり認識しておいた方がいいのではないか、と思います。

そもそも何故認められたいと思うのでしょう?

自分が相手と付き合っていることを、自分で認めるだけでは足りないのでしょうか。心細いのでしょうか。寂しいのでしょうか。そもそも自分で認められていないのでしょうか。

この話って結局、自己肯定感と繋がってくると思うんですよね。

自分を肯定、ひいては自分と相手が付き合っている、相手に愛されていることを肯定できていれば、必要ないんじゃないか?そう考えられてしまうわけです。

でもきっとそんな単純なものではないのでしょう。

「”普通の恋愛”とは違う」ということを認めること、”普通”とは少し違った自分を認めること、それでも自分は相手が好きだと認めること――。

認める、という行為はたくさん重なっているもので、恋愛について以外のことも絡んできます。だからこそややこしい。

承認欲求というやつは、手強いのです。

否定されたくない方は多いでしょう。そりゃあ自分の行いを否定されるのは誰だって嫌ですから。

その理由が何であれ、完全なる理解を求めるまではいかなくとも、自分についての事を否定されたくない。

否定されない≒認める

と、言えるでしょう。完全肯定ではなくとも、否定はしないでほしい。自分のことを、ひいては自分の存在について。

大きく物事を捉えすぎと思われるかもしれませんが、人間嫌なことほど拡大解釈しがちです。ただ一つの出来事について或いは行為や思想について否定されただけで、自分の存在全部を否定された気になってしまう。

そりゃあ、否定を恐れるのも当然ですよね。

だから私は肯定します。肯定できなくとも否定はしません。いろんな恋愛の形があります。いろんな愛し方があって愛され方があります。全て何もかも認めることはできないかもしれません。けれど、フィクトセクシュアルという恋愛の形について、少なくともここに一人肯定している人間がいることが、あなたの救いになれば幸いと思うのです。

……承認欲求について、いずれまたきちんと書きたいですなぁ。

サポートは新たな知識を得るための本代として使わせて頂きます。"こんな記事が読みたい"というリクエストありましたらツイッターまで!!