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自己犠牲混じりの優しさだったけど、大切すぎる時間でした

辛い状況があったとして。その先も生きていくには、当然その状況をなんとかして乗り越える必要がある。その時、必要な分だけ人の手を借りたほうがいい。借りないといけない。いくら強調してもしすぎることはない。


自己破産に向けた最後の打ち合わせ

台風19号の前日、私とパートナーは管財人面接のため弁護士事務所に出かけた。私たちは女性同士の同性パートナーで一緒に暮らしている。昨年12月まで心理カウンセリングの会社を共同経営していたが倒産せざるを得なくなり、同時に彼女自身も自己破産申告をする。その手続きのうちの一つだった。

もともとの会社の代表は彼女だったが、倒産手続きを行うために最後だけ私が交代し手続きを進めてきた。それほどに彼女は心身の体調をひどく崩しており、そもそも外部とのやりとりが苦手という社会不安がずっとあった。

管財人とは、破産者の財産を債権者(借金先)に正当に分配する役割を持つ裁判所に選任された人のこと。(もっとも今回は分配するような財産はないので分配はできない。)私たちが本来返すべき借金をどうしようもできないから免除してもらおうとしているわけなので、なぜ免除してよいと言えるのか、その立証の必要性がある。破産に至る経緯を、今までの担当弁護士とは別に、あらためて事情徴収されるような面接だった。

面接は、私たち二人に対し、管財人さん、担当弁護士さん。全員女性だった。おそらくそれは偶然ではなく、女性の担当弁護士の計らいで、目上の男性が苦手なパートナーが話しやすいように女性の方を選んでくれた可能性が高い。管財人のこじんまりとした打ち合わせルームは、壁一面に法律に関する書籍やファイルが並んでおり、机には本物か偽物かわからない、小さなフラワーアレンジメントが置かれていた。


自己破産に至るまでの彼女の行動は客観的に見たらめちゃくちゃだったし、その側にいた私も、もはや信頼というより他人任せというような具合だった。もちろん一生懸命生きてはいたものの、私たちは一言で言えばあまりに無謀だった。

なお、会社倒産と同時に代表が破産するのは珍しくない中で、本件は幸いにも会社の借金は個人の返済義務はほぼなかった。にもかかわらず自己破産するのは、彼女個人のお金の使い方と、それを完全に見過ごした私の怠慢だった。彼女が給与に見合わない家を借りるのを許し、彼女のカードで私も生活を共にしたのだから、どう見ても同罪だった。

そもそも何かがおかしくなっていなければ、自己破産までには至らない。

もちろんその原因には精神状態の悪化が含まれている。たとえば、会社のお金が(融資金含め)底をついて、私が残りの遺産全てをつぎ込んだ同時期に、彼女はカーローンで新車を買っている。「買ったからには頑張らなくてはと奮起するため」だった。そこまでして奮起しないと仕事ができないのは変だし、その材料の選択もだいぶおかしいし、車を買うと聞いて驚いた表情も作れずに「わかった」と言うしかできなかった私も、どうかしている。でも、昨年の私たちにはそれ以外の行動ができなかった。


彼女は今まで過去の行動を直視するのもとても出来ない状態だったので、個人の反省文も私が代理執筆して提出していた、のだったが。

昨日の彼女はというと、普通に出かける支度をし、電車に乗り、打ち合わせルームに入り、私と担当弁護士に挟まれて管財人と向き合って、管財人からの質問にはっきりと答えることが出来ていた。外部の人と、お金のことについて、しかもお金の失敗について話している。これは、 すさまじい変化だった。


心が治るということ

打ち合わせの最後、彼女の声は震えていた。管財人さん、担当弁護士さん、そして私への感謝で震え、涙を浮かべながら、お礼の言葉と「これからは心を入れ替える」と話していた。どん底から這い上がるためのフォローをしてきた、そしてこれからもしていく、たくさんの手に感謝をしていた。


もともと、彼女は人を動かすことがとてもうまい。相手に寄り添うことも、よい印象を与うことも得意な人だ。それこそ弁護士だって、高額商品のセールスマンだってこなすだろう。私が弱者扱いした描写をしているせいで誤解されそうだが、彼女の頭は尋常ではなく良く、能力もずば抜けて高い。

それでも、これは感謝している演技ではなかった。その言葉は体裁だけではけしてない、本音だった。私には分かる。彼女は本当に感謝していた。

彼女は最近よく「今まで尊大のエネルギーに取り憑かれていた」というようなことを話していた。偉くなりたい、よく見せたい、尊敬されたい、そういう気持ちが強すぎたということで、それはとても辛いことだったと思う。

だから、本当に本当に本当によかった。めちゃくちゃな行動の裏には必ず、めちゃくちゃな心がある。心が治らなければ、いくら反省文を書いたって意味がない。

治そうと思うことと治ることも違う。治っている風を装うこと本当に治ることも違う。側で見ているとわかる。今度こそ、本当に治ってきたのだ。人には、生き続けるための自己治癒力が本当に備わっていた。

もちろん私の心だってまだまだめちゃくちゃではあり、人のことを言える筋合いではない。それでも、一人の人の心が整ってきたということは、最大の祝福に値すること。本当によかった。ここまで生きてこれて、よかったよ。



優しさと自己犠牲

一方で私には、自分にどこまでも自己犠牲を許す癖がある。どこまでが優しさでどこからが自己犠牲なのか。それが見極められない人が優しさを自称するのは危険すぎるからやめたほうがいい。誰よりも自分のために記したい。


「本当にありがとう。ここまで来れたのは、あなたのおかげだった」

と彼女に言われて、素直に「よかったな」と思い「どういたしまして」と言った。けれど。それだけではない気持ちがなかったといったら嘘になる。


彼女との付き合いはもう8年ほどになる。生活(家計)を共にし、途中からは仕事も一緒で、起きてから寝るまで、買い物もお風呂も、基本的にはずっと一緒に過ごしてきた。

彼女は眠れない日も多かった。今夜も寝たいのに寝れない。彼女のせいで。

機嫌が悪いこともあった。彼女が怒り、私を責め....私は、共依存体質で愛着障害なところがあり、謝ってしまう。そんなに怒らなくてもいいじゃないか、それでも謝らねばならない、彼女のせいで。

体調が悪いことが多かった。出かけられない。他の人と会えない。彼女のせいで。

お金もなく、しかし会社に務めることも叶わない。彼女を置いていくことになるし、そんな社会の歯車にならなくてはならないなんて今までの私たちの思想に反しているから。私はしたいのに、できない。彼女のせいで。

私の家族や友人にお金を借りたりもらったりすることも、たくさんした。活動が盛り上がってきたのにいきなりやめることもたくさんしてきた。人の期待を裏切るようなこともたくさんした。私は裏切りたくないのに、また裏切ってしまった。信頼を失った。彼女のせいで。



違うんだ。

ここに書いたこと全て、本当は彼女のせいではない。私のせいだった。

私はもう大人で、大人に付き従うしかない子どもではない。それでも彼女の言うこと聞き、賛同し、一緒に行動していたのは、彼女のことが好きだったからだし、楽しかったからだし、私がやりがいを求めていたからだし、私が実際に優しかったからでもあるだろう。ただそこに、自己犠牲をいつの間にかたくさん溶かして、混ぜてしまっていた。嫌なことがあれば、断ればいい。無理だと言えばいいのだ。

私が自分の優しさと自己犠牲を混同して、尽くしすぎて。限界になってしまっていた。もっと他の人の手を借りればよかったのだと実感している。



たった一人で支えようとしないで

昨年からずっと支えてくれていた共通の友人、何人もの以前のお客様から友人になったようなみなさん、そして私の最初のnoteに登場する私の妹。そしてnoteで出会ったみなさん。いつも助けられています。ありがとうございます。


その、もっと前。ほとんど誰にも助けを借りませんでした。カウンセリングにはかかっていたけれど、それ以上のことは考えられず、そのまま自分の中だけで持ちこたえることだけを考えて頑張っていました。

今、誰かを支えてたいへんな思いをしていて、これは私がやるしかないんだと思っている人。まだ大丈夫と思っている人。一人でも二人でも、周りの力を借りても悪いことにはなりません。手が多ければ多いほうが楽になるはずで、楽な思いをしてダメなんていうことはありません。あまり自分の優しさを信頼しすぎないほうがいいかもしれない。

一人で持っていたらいつか潰れてしまうかもしれない。何より、我慢しすぎてその大切な人のことを悪く思ってしまう。そんな結末は誰だって絶対に嫌だと思うから。

それにもしあなたが一人で苦しんでいることを周りの人が知ったなら、きっとあなたを助けたいと思うはず。それは、あなたが大切な誰かについてそう思うのと同じように。



今の私、時間をたっぷり使って自分の行動を振り返れて、もう彼女のことを責めようとは思わない。今まで一緒にいた8年間、未熟だった私たちの大切すぎる想い出として、しっかりと糧にできたと思う。

健康な彼女と、まだ未熟な私。二人の考えていること、関係性、バランスは変化してきているから。これからどうやって生きていこうかな。

少しずつ話し合っています。



追記:
続きを書きました。


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