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良い思いをするまでは死にたくない

私は人が苦手だった。正確には、人と関係を築くことが苦手だった。初対面で話しかけるのは得意な代わりに、食事に誘うことがなかなかできなかった。不和を恐れて自己主張をしないから、けんかになることもありえない。

踏み込むのも踏み込まれるのも落ち着かないから、今までの人生、建前の付き合いをしている時間が長かったと思う。

私の本音は、紙の日記帳や、大人になってからはその代わりになっていたメールボックスの下書きだけが聞いていて、その後、ブログやnoteというインターネットサービスに載るようになった。

そもそも私の家族は本音を言い合わない。それは単なる日常だったから、特に不快でも不満でもなかった。


そういえば、私が初めて夏休み以外に日記を書き出したのは、父がくれた、しっかりした、まるで単行本のような真っ白な日記帳だった。今思えば、本音はこれに書くように、なんてことを思ってのプレゼントだったのだろうか。

いや、そんな凝った意図は特になかっただろう。ともあれ、私がこういう自分語りの文章を書くようになったのはその日記帳が最初だった。

小学校六年生、中学受験の試験直前から始まっているその日記、我ながら瑞々しく面白い。六年生の私が許してくれたら、いつか紹介できたらしてみたい。

一人でどこに行くのも、別になんとも思わなかった。が、背後の死角に、寂しさは渦を巻いて降り積もっていたはずだ。私はいつだって人を渇望していた。


中学や高校に通っていた頃、学校帰りにTSUTAYAにも通っていた。アルバイトではなく客として、音楽をただひたすらに試聴し、漁っていた。

あるとき、入り口外から見えるポスターに目を引かれた。知らない外国人アーティストが3人か4人くらいでレコーディングをして笑いあっている写真だった。

その頃の私は闇の中にいたから。もしも、こんな瞬間が私にも訪れたら死んでもいいな。確かにそう思ったのを覚えている。


そのあとの高校生活で、友人と映像作品を作った。文芸の同人誌も作った。大学でも映像や音楽、イベント運営。その後も数知れず多くの人間とその時しかない、貴重な時間を共有してきた。

私はいつの間にか、いつ死んでもいい人間になっていた。

もう一度時を遡り、高校生のころ。「私って、今が一番面白いだろうな」と思っていた。楽しい生活を送っているということではない、私自身の感性が一番ノッているだろう、という意味だった。卒業して大学に行ったら、詰まらぬ人間に成り果ててしまう可能性が高いと予感していた。

果たして、その通りになった。

世界は大きく、自由で楽しく、私は経験を求めて積極的に外に出るようになった。私の感じられる範囲を超えた、数多くの経験が雨あられと降り注ぎ続いだ。


多くの人に関わってもらい、指導してもらい、社会人として、大きく成長した、と思う。ビジネスでの機会の作り方、人間関係の育て方、仕事を介したコミュニケーション。成功も失敗も。積み重なって、私の目は外に向き続けた。外側だけ成長しつづけ、内側の厚みは、高校生から変わらないままずいぶんと時が経った。

キャリアカウンセリングや心理カウンセリングに関わる仕事もした。けれども、まだまだ、実際、プライベートでは、私は未だになかなか心を開こうとしない。

未だに、愛想笑いで何かを防御しながら生きているのだった。たまに、私に侵入してくる、侵入してきてくれる人がいて、そういう人たちにはとても感謝している。

このnoteというプラットフォームは他の世界よりは人が人の内面に触れやすく、ドアノックしやすく設計されていると思う。それは、私にとって、「侵入してきてくれる友人たち」と同じくらいにありがたい存在になった。今、ここでコメントなどをやり取りさせていただいている方、読んでくれている方の存在はとても貴重で、そのうちに、愛想笑いを控えて、いろんな話をしたい。できるんじゃないかな、と思っている。


高校生の頃の私は、死にたいと思うほうではなくて、逆に、絶対に死なないでいてやると誓っていた。ただ、生きていてよかったと思えるくらいの良い思いをして、見返してやりたかった。

このままでは、闇の中をうろうろとさまよっているだけの自分が、浮かばれなさすぎて。

あれからもう15年くらいか、経っている。たしかにもう死んでもいいくらいの思いは十分した。それでも、まだまだ私は、外側だけではなく内側も含めて、もっと良い思いをしたいと思いながらしぶとく生きている。




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