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ヒーローじゃない19


 ふと、目を覚ます。目覚ましのアラームはまだ鳴っていない。ただ、カーテンの隙間から朝日が零れ落ちているのが視界の端に映っているので、そろそろ起きなければいけない頃合いなのだろう。
 静かな筈である部屋の外で、誰かの話し声が聞こえていた。扉を隔てているので会話の内容までは聞き取れないが、この家にはアマネとチアキの二人しかいないので、話しているのはチアキということになる。
 この前のように力也が電話をかけてきたのだろうか、と考えつつ起き上がり、椅子に掛けていたカーディガンを羽織ってリビングへと続く扉を開けた。いつもであれば少しは身支度を整えてから部屋を出るのだが、何せこの時間帯にかかってきた電話だ。万が一また魔獣に襲われているといったものであるならすぐに状況を把握しておかなければいけないだろう。

「はい……分かっています。期日までには、戻りますから」

 耳に入ってきた声色は、あまり聞いたことのないものだった。声自体は彼のものだと分かるのに、雰囲気が明らかにいつもと違っていたのだ。
 淡々とした、機械のような。事務的、という言葉が妥当かもしれない。

「承認は下りている筈です、プライベートにまで口を出さないで頂けると。はい……失礼します」

 少しして電話を終わらせたチアキはため息混じりに子機を置く。それから、ようやくアマネがいることに気付いて驚いた顔をした。

「アマネさん。起きてたんだ」
「うん……おはよう」

 微妙な表情をしているアマネを気にせず、チアキはいつものように笑顔を浮かべて挨拶を返してくれる。先ほどの、なんの感情も篭っていないやりとりが嘘のようだった。

「えっと、さっきのって」

 流石にスルー出来ずに問いかけると、彼は「ああ」と曖昧に笑ってまた子機に目を落とした。

「ちょっと、機関からね。電話来ちゃって」
「機関……って、チアキが所属してる?」

 魔獣を討伐する為に世界中を飛び回っていたチアキの所属は、国営の大きな機関だ。この機関に所属するヒーローは国の要請で国内外の大きな討伐任務を遂行しているのだと前に力也から教えて貰ったことがある。二種で、しかもしがらみを持たないフリーのアマネからすれば別世界の存在なので、以前までは気に食わない一種や特級が多数在籍する所くらいの認識だった。
 そんな機関が、アマネの家に電話をかけてきたとはどういうことだろうか。仕事柄、別に家の電話番号を隠しているわけではないが、大して有名でもないここをわざわざ調べたとでもいうのだろうか。
 分かりやすく不審げな顔をしたアマネを察したのか、チアキは「あ、違うんだ」と首を振った。

「ここに直接かかってきたわけじゃなくて、力也さんの家にね。俺がこの町にいるのが向こうにバレたみたいだから、ちょっと言い訳を」
「ああ、そういうこと……知名度がありすぎるのも大変ね」
「あはは、もう慣れたよ」

 チアキは至って普通だが、アマネの胸中はざわざわと落ち着かなかった。こんなタイミングで機関から連絡が来た理由。どう楽観的に見ても良いものではないことは分かりきっている。
 電話の前からキッチンに移動したチアキは手近にあったマグカップを二つ出し、同時にコーヒーメーカーのサーバーも取り上げる。コーヒーがマグカップに注がれていく音と、香ばしい香りがこちらにも届く。どうやらアマネが起きる時間に合わせてセットしてくれていたようだ。

「……戻れって、言われた?」

 思っていたより震えた声が出てしまった。なんの準備もせずに聞いてしまったことを若干後悔するが、今更取り消せるわけもない。それだけを言ってぎゅっと口を噤むと、チアキはコーヒーサーバーを置いて、今度はシュガーポットの蓋を開けながら首を振った。

「休暇届は出してるんだ、文句は言わせないよ。それは向こうも分かってると思う」
「でも、わざわざ電話かけてくるなんて」
「こういうのが面倒だから、敢えてスマホは置いてきたんだけど……心配性だよね、本当」

 全く情を感じられない言い方だった。砂糖を両方のコーヒーに一杯ずつ入れてかき混ぜてから、チアキは二つのマグカップを持ってアマネの近くに来る。片方を差し出されたので受け取ると、カップから伝わるコーヒーのじんわりとした温もりが手のひらに伝わってくる。朝は冷えるので、温かい飲み物は素直に嬉しかった。

「休暇が、終わったら……」
「そうだね、戻らなきゃいけない」
「本気?」
「そう決まってるからね」

 チアキの表情は至って穏やかだ。なんてことのない世間話をするように、彼は平気で地獄のような場所に戻るのだと言ってしまう。
『本来なら踏み込む覚悟が必要だということも、もう分からないだろうから』
 駒沢の言った言葉が脳裏を過ぎる。その通りだ。そうでなければ、こんな風には言えないだろう。
 眉を寄せるアマネに「でも」とチアキは話を続けた。

「戻りたいわけじゃないよ、勿論。死にたいとは思ったけど、殺されたいとは思わないし」
「なら、戻らなきゃ良いじゃない。あそこを辞めるのはそんなに難しいことなの? 国が絡んでるから?」
「それもあるけど、メディアとかその辺の兼ね合いがね。仕事しながら身辺整理もってなると……それだけで身体壊しそうっていうか。精神的にもね」

 雁字搦めにされている。そう思った。
 誰かの命を守る為に自分の命を削っていたのに、いざ自分の命を守ろうとすればそれは許さないと糾弾される。想像は出来なくない。しかしチアキの言葉にはそれだけでは説明がつかない実感が滲んでいた。過去にそういうヒーローでも見たことがあるのだろうか。
 何も言えなくなったアマネに、チアキの指先が伸びる。髪に触れて、頬に下りた所でその指がぴくりと反応した。

「冷えてるね。寒い?」
「ううん、これくらいは慣れてるから。コーヒーも貰ったし」

 コーヒーで温まった手を頬で止まったまま動かないチアキの手に重ねると、彼は「本当だ」と何故だか嬉しそうに呟いた。
 あの日から、チアキはほんの少しだけ触れてくるようになった。決定的な強さで触るのではなく、あくまで軽く、気まぐれのように、彼の指はアマネの髪や手、頬に触れる。
 きっと、彼はアマネが拒めば止めてくれるのだろう。しかし、拒めなかった。数々の努力を如実に語っている大きな手が触れる度にじわりと心に何かが染み込む。安堵感のような、幸福感のような。曖昧なその感情に名前を付けることは、容易い。何も知らない無垢な子供ではないのだ、多くはないが経験はあるし、自覚もしている。
 ただ、口に出すことだけがどうしても憚られた。認めてしまったら、いよいよどうしたら良いのか分からなくなってしまう。チアキを機関に戻すのは反対だ。しかし引き止められる術も権力も持たないのに、私の為に行かないで、などとは口が裂けても言えない。同じヒーローとして、彼にこれ以上枷を付けたくはなかった。踏み込んだ話が未だに出来ずにいるのはそういう理由もある。

「ねえ、チアキ」
「ん?」

 口を開けて、しかし言葉は何も出てこない。喉元まで出かかっているのに、すんでの所で詰まってしまう。

「……ううん、なんでもない。朝ご飯作るね。コーヒー用意してくれたから、今日はトーストにしよう」

 握っていた彼の手を離してキッチンへと向かう。また、話せなかった。後悔するが、今更話を戻す気にもならなかった。
 朝食の材料を取り出しながら、アマネは考える。こうして誤魔化し逃げ続けるのもそろそろ限界だ。機関から電話がかかってきた以上、きっと彼はそう日を経ずにいなくなってしまう。
 そうして、彼が行き着く先がどこなのか。アマネは想像もしたくない。


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