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「昭和」から「令和」で、教科書他の表記が大きく変わった日本歴史の7大事件

まもなく新しい元号「令和」がスタートします。日本の歴史にまた新たな一時代が加わりますが、皆さんが最近の教科書や学習まんがなどで日本の歴史記事を見たときに、「あれ?自分が義務教育を受けた昭和や平成初期とは、ずいぶん書き方がちがうな」と思った経験は無いですか。歴史上の記述は、新しい文献の発見や学説のアップデートで、年々内容を変えて来ています。特に大きく記述が変化してきたところを、7つご紹介いたしましょう。

(1)聖徳太子はいなかった?

聖徳太子、昔の記憶だとホントに超人でしたよね。一度に5人の話を同時に聞く能力を持ち、法隆寺を建て仏教を普及。冠位十二階や十七条憲法を制定して、古代国家の基礎を築いたと言われますが、最近ではすべてが太子の仕事ではない!という話に。「厩戸王」という優れた政治家がいて、その人の仕事に後世の人間がいろいろな業績を付け加えて、聖徳太子という理想の人物像が形成されたというのです。一時は来年からの教科書改訂で、聖徳太子という表記が消えるのではないかと噂されましたが、長年人々に親しまれてきた名を完全に消すのは忍びなく、どうやら厩戸王(聖徳太子)という表現で残るのではないかと聞こえてきています。

(2)応仁の乱、日野富子は悪くなかった?

足利幕府の衰退を招いた室町時代の「応仁の乱」は、第八代将軍・足利義政の妻の日野富子が、次の将軍に内定していた義政の弟の義視を追い落として、実の息子の義尚を将軍の座につけようと山名宗全と図ったのが原因と言われました。しかし、実際はベストセラー呉座勇一氏の『応仁の乱』にあるように、乱の背景には臣下の家督争いや、他の守護大名たちの思惑が複雑に入り乱れていました。こうした単純な悪人原因説というのは他にも見られますが(足利尊氏、平清盛など)、最近ではその時代の状況を丁寧に読み解いて、特定の人物に責任を負わせないとされます。

(3)川中島で、謙信は信玄に切りつけなかった?

日本の歴史の中でも屈指の好ライバル、武田信玄と上杉謙信。両者は北信濃の川中島の地で、5回も対戦しました。特にその第4回目の激戦では、戦いたけなわで大将の上杉謙信自らが武田軍の陣営へ突進。武田信玄に馬上から斬りかかると、信玄も鉄の扇で謙信の刃をはっしと受けたという名場面が有名です。この記述は江戸時代の軍学書『甲陽軍艦』が出典ですが、これは歴史書というより広く出版された物語書という性格が強く、今では戦いがあったことは事実だが、両軍の戦法や信玄と謙信の遭遇の場面は、あくまでフィクションとして扱われます。

(4)桶狭間で、信長は奇襲をかけなかった?

尾張国に侵入した今川義元の大軍に、その1割ほどの兵力で立ち向かい、「桶狭間」で義元を討ち取った織田信長。信長の飛躍の始まりとなったこの戦いは、信長が兵力の不足をカバーするために、スパイを使って義元が油断して休息しているとつかんだ、起伏の多い地形を迂回して隠れながら接近するなどして、奇襲をかけたとされました。しかし資料の『信長公記』にはその記述はなく、折からの豪雨に隠れる形で接近した信長軍が、偶然にも遭遇した義元の本隊へ突撃して大将を討ち取ったという、決死の信長軍の戦いぶりが招いたラッキーな勝利だとされるようになりました。

(5)長篠の戦い、鉄砲の三段撃ちはなかった?

精強を誇る武田勝頼の騎馬軍団を相手に、織田信長が勝利した「長篠の戦い」。信長はあらかじめ戦場に木の柵を築いて、武田の騎馬隊の突進を止め、鉄砲隊を横3列に並べてかわるがわる撃つ「三段撃ち」をしたことで勝利したとされました。しかし近年の研究では、鉄砲の三段撃ちをしたという資料は見つかっていません。鉄砲隊を分けて配置する、かわるがわる撃つなどの工夫はされたかもですが、勝因は信長が大量の鉄砲を用意して戦場で運用することにより、従来の戦法を一変させたことにありました。

(6)明智光秀は、信長への恨みから裏切った?

戦国時代にまつわる謎のひとつ「本能寺の変」。なぜ明智光秀が中国攻めの応援に行く予定を突然変えて、本能寺へむかったのか。光秀は信長に代わって天下を狙ったとか、信長から人々の面前で打たれたり、人質になっていた母親を信長に見殺しにされ恨んでいたとか、様々な理由が言われていした。しかし変の直前まで、光秀は信長への深い感謝と信頼を表明していますし、恨みの原因とされた出来事の多くにも根拠はありません。2020年のNHK大河ドラマ「明智光秀」では、どう描かれるのかが今から楽しみです。

(7)江戸時代、鎖国はされていなかった?

徳川幕府が成立して、日本はそれまで行っていたポルトガル船の来航を禁止し、鎖国政策をとったとされました。しかし、キリスト教を広めない約束をしたオランダには、出島にオランダ商館を建てました。また長崎に唐人町を作って、中国人を住まわせました。実際は国を閉ざしたのではなく、幕府が利益を独占しながらの管理貿易を行ったということで、最近はカッコ付きで「鎖国」という表記もなされています。



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