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2020年NHK大河ドラマ「明智光秀」を、今からワクワク待つための基礎知識

戦国歴史ファンの皆様、おまたせしました。2020年、NHKの日曜夜8時に、3年振りに戦国ドラマが戻ってきます。しかも主人公が、なんと当時の武家社会からは不忠者、極悪人とさんざんな評判だった、あの明智光秀とは。(ドラマのタイトルは「麒麟がくる」。脚本:池端俊策)

光秀はその生涯に謎が多く、主の信長殺しを巡って様々な陰謀論が昨今書かれている中、ドラマがどのような光秀像を見せてくれるのかが、今から大変楽しみです。とりあえずオンエア前に、明智光秀とは?をあらためておさらいしながら、2020年を待つことにいたしましょう。


明智光秀って、どんな人物?

「明智光秀」は、日本の戦国時代(15世紀末から16世紀末)の終わりごろに活躍した武将です。主君として仕えていた織田信長を裏切り殺したことで、後の世で武家社会のルールを破ったとされ、光秀に関する記録が消されたり書きかえられたので、今に残る確かな資料や肖像画はとても少ないのです。その数少ない1次資料から、明智光秀像をあらためて検証してみましょう。

信長(しんちょう)公記(国立国会図書館蔵)
光秀について80カ所以上で触れられている、信頼性のある史料ですが、こうした史料でも光秀の裏切りの理由は、はっきりと書かれていません。

(その1)光秀、謎の前半生

明智光秀は1528年ごろに美濃国(今の岐阜県)で生まれたとされていますが、正確な記録はありません。仕えていた主君が滅んだか何かの理由で美濃をはなれ、京都へ出て文化人との人脈を作ったらしく、その後に越前(今の福井県)の戦国大名の朝倉義景に仕え、そこで京都を追われて義景を頼ってきた、室町幕府の将軍の足利義昭と出会い、義昭の側近となりました。

義昭は朝倉義景の力を借りて再び京都へ帰り、幕府の力を取り戻そうとしましたが義景は動きませんでした。そこで光秀は同じく義昭の側近の細川藤孝とも相談して、当時めきめきと勢力を増していた尾張(今の愛知県)の織田信長を頼ることに決めたようです。明智光秀と織田信長、運命の出会いです。(このあたり、ドラマでどう描かれるのかが大変楽しみです。)

(その2)光秀の生きていた時代

戦国時代とは、日本全国を治めていた室町幕府の力がおとろえ、各地方で権力の座をめぐり激しい争いが起きていた時代でした。強い者が弱い者をたたいてのしあがる、下克上(げこくじょう)と言って主君を部下が裏切ってその座をうばい取る、そんな何でもありの社会状況だったのです。

1568年、織田信長は自分の領国だった美濃に足利義昭をむかえました。その仲介をしたのが明智光秀だと言われています。日本全国の統一という野望を持っていた信長は、早速その年の9月に義昭を伴って京都へ入ります。この時の戦いにも光秀は加わり、各地を転戦したようです。光秀の名が信頼できる資料に具体的に登場してくるのは、その翌年の1569年に、京都で三好三兄弟の攻撃を受けた足利義昭に光秀が加勢して防戦した(「信長公記」より)ところからになります。

織田信長肖像(長興寺所蔵)
意志の強い、激しい気性がこの絵の表情からもうかがえます。

(その3)織田信長に見いだされた光秀

京都に入った光秀ですが、織田信長の有力な家臣たちと連名で、さまざまな信長の命令を伝える文書を発行し始めます。光秀は義昭の側近という立場は残したままで、信長の家来でもあったのです。この時代には、そうした二人の主君に仕えるというのは当たり前にあることでした。でもそれが後で光秀を苦しめるようになりました。

義昭は京都に戻ってから自分が幕府の中心となってまた全国を支配するつもりでしたが、信長は義昭が出す命令は必ず信長の許可を得るように定めました。義昭はあくまで形だけの将軍で、幕府の実権は自分でにぎろうとしたのです。義昭と信長の仲は次第に悪くなり、光秀は二人の間に入って取りなすのに苦労をしました。信長の信頼を得た光秀は、政治だけでなく武将としても有能な働きをみせ、ついに1571年には義昭と離れて信長の下で出世の階段をかけあがっていったのです。

(その4)信長の武将として大出世

1571年、信長は自分と敵対していた比叡山延暦寺(えんりゃくじ)を攻撃しました。当時お寺の権威は絶対で、そこを攻めるなどということは常識はずれでしたが、古い価値観を否定する信長はじゃまな比叡山を焼いて、僧侶や人々をすべて根絶やしにするよう、光秀と同じく家臣の木下藤吉郎秀吉らに命じました。(実際には光秀と秀吉は相談して相手に攻撃のことを事前に知らせ、お寺の宝物や多くの人々の命を救ったという説もあります)

絵本太閤記より比叡山焼き打ちの図(国立国会図書館所蔵)
光秀らの攻撃で山中ことごとく炎に包まれ、僧侶など4千人が死んだと言われます。

比叡山攻めを成功させた光秀は、信長からそのほうびとして近江(今の滋賀県)の一部の領地を賜り、琵琶湖のほとりの坂本に立派な天守閣を持つ坂本城を建てました。信長の家臣の中では、一番の出世でした。その後も光秀は信長に従って、信長に従わない武将たちや、信長への反乱を起こした足利義昭を攻め、長年の苦心ののちに1579年には丹波国(現在の京都、兵庫、大阪にまたがる地域)の平定をはたし、占領した丹波を信長から与えられました。この間に、信長の推薦で朝廷から惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)という名前も授かります。織田信長の部下として、光秀はキャリアの絶頂期をむかえたのです。

(その5)光秀、謎の裏切りと滅亡

しかしその後、何があったかは不明ですが、信長のほかの家臣たちが全国各地に散って天下統一の戦いを進める中、近畿地方にとどまって土地の測量や、信長を訪れた同盟者、徳川家康の接待役をするなど、はなばなしい武勲を立てられる場所からはなれて過ごす日々が続きました。

そして運命の1582年6月、中国地方で毛利氏を攻めていた秀吉の援軍を信長から命じられた光秀は、軍勢をひきいて中国地方に向かうかわりに、京都の本能寺にわずかな護衛と共にいた主君の織田信長を急襲しました。世に言う「本能寺の変」です。信長は自ら弓矢をとって闘いましたが、大軍の攻撃にはかなわず炎の中に消えました。光秀の裏切りは大成功をおさめたのです。

新書太閤記より本能寺焼討之図(愛知県図書館所蔵)
光秀に不意をつかれた信長は勇敢に戦いましたが、かなわず自刃しました。

信長を倒した光秀は、娘婿の細川氏などに味方になるよう働きかけましたが、主君殺しという悪い印象がじゃまをして、なかなか味方は集まりませんでした。間もなく事件を知った秀吉が、中国地方から大急ぎで引き返してきました。光秀軍とその2倍以上の兵力の秀吉軍とは、京都の山崎で決戦となり、敗れた光秀は逃げる途中で落ち武者がりの農民によって殺されたといいます。光秀の居城、坂本城も追ってきた秀吉軍に焼かれました。明智一族は、ここにすべて滅んだのでした。

(その6)裏切りをめぐる諸説、陰謀論など

はっきりした史料が残されていない中、光秀がそれまで忠実に仕えてきた主君の信長をなぜ突然に裏切ったのかについては、後の世になってから、さまざまな説が唱えられてきました。しかし、いまだににこれが決定打といわれる定説は、固まっていません。

1)信長への「うらみ」説

江戸時代以降に書かれ光秀の生涯を描いた書物には、
*信長が光秀のささいな言動をとがめて、暴力を振るった
*信長の命令で、敵国の人質になっていた光秀の母を見殺しにした
*信長が光秀の領地をとりあげ、これから征服した地を与えるとした
などの記述があるものが見られ、こうした理不尽な信長の行いに対する光秀の長年のうらみが積もって、本能寺の変につながったとされ、民衆の光秀への同情をかいました。しかしそれらのできごとは後世の作家の創作であったというのが、いまでははっきりしています。

2)光秀の「心の病」説

明智光秀が死んだ時の年齢は、55歳ぐらいとも言われています。平均寿命の短い当時では、すでに老齢にさしかかっています。比叡山攻めを始め、長年にわたって信長ひきいる「ブラック軍団」で残酷な命令を実行してきた光秀が、その心労に加えていつ自分が信長から追放されるかもとおびえ、精神状態が限界にきていたのではないかという説です。本能寺の変の前に参った寺でおみくじを2度も3度もひいた、出された「ちまき」を上の空で皮ごと食べた、ことからも光秀の心の動揺が感じられるとされます。

3)そのほかの説いろいろ

「野望説」
いつかは信長に替わって天下を取ろうと狙っていた光秀が、家臣たちが各地に散ったすきに裏切ったという説。2017年のNHKテレビ大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、信長が殺そうとして京都へ呼んだ徳川家康と組んで、信長を倒そうとする光秀が描かれました。

「黒幕説」
信長の存在を快く思わない旧体制の勢力が、光秀をそそのかしたという説。黒幕としては光秀の旧主君の足利義昭や、信長が神をないがしろにしたと怒ったイエズス会などがあげられています。

「朝廷説(信長非道阻止説)」
信長が京都に入って命令を出すようになってから、信長に非礼な扱いをうけつづけ、すっかり影の薄くなってしまった朝廷が、将来自分たちが信長から排除されるのをおそれ朝廷を大切に思っていた光秀を動かしたとされます。

「四国説」
2014年に公開された「石谷家文書」などにより、光秀が和平の仲介をしていた四国の長宗我部氏を信長が攻めることになり、メンツをつぶされた光秀が、長宗我部氏、中国地方の毛利氏、足利義昭などと協力してクーデターを起こしたという説です。

(その7)「誠」の人だった光秀

以上、いろいろな裏切りの原因説を紹介してきましたが、主君の信長により低い身分から取り立ててもらったことに深い恩義を感じ、絶大な信頼を寄せてきた光秀が、そんな一時の感情や、自分自身の損得だけの理由で敬愛してきた主君を裏切るものでしょうか?
(本能寺の変の前年、1581年に光秀が定めた明智軍の軍法にも「私はがれきが沈んだような低い身分から信長さまに取り立てられて、このように多くの兵を預けられるようになった」と、光秀は信長への感謝を述べています)
参考資料『明智光秀 史料で読む戦国史』の中で、編者の藤田達生氏は光秀文書を解読して感じた光秀の人物像について、二つの特徴をあげています。

「第1は、家臣や民への気づかいから見える、人間的な優しさ」

光秀の残した手紙を読むと、家臣の傷の具合をたずねてゆっくり養生するように伝えるものや、亡くなった部下の息子が大きくなるまで後見人をつけるように取り計らうものなど、光秀が家臣をまとめるために努力したことがうかがわれます。また戦で死んだ家臣をとむらうため、家臣たちの名前を記してお寺に供養米を納めた記録が残っています。

領民を大事にする武将でもあったようで、領国にした丹波では領民の借金を減らして暮らしやすくする徳政令を出しています。領国以外の人々に対しても、北陸地方で農民の反乱と戦った信長の家臣・柴田勝家へ、降伏した人々に対する寛大な処置を求める書状を送ったりもしました。(当時「明智藪」と呼ばれる治水用の堤を築いた光秀は領民から慕われ、光秀を祭る御霊神社が現在も残っています。)

「第2は、信長への深い恩義と、信長家臣への気配りから伝わる忠誠心」

先に紹介した明智軍法には、自分を見いだしてくれた信長への感謝がはっきり書かれていました。また光秀は家中で決まりを作り、信長を敬い、その家臣とも争いをおこさぬよう、細心の注意をはらっています。信長家中で大成功をおさめた光秀であっても、少なくとも本能寺の変の前年までは、信長は光秀にとって絶対的な権威であり、恐ろしい存在だったのです。

(その8)暴走を続ける信長、海外への野望も

本能寺の変の直前、織田信長の天下統一はほぼ8割方完成しかけていました。あとは中国地方から九州への侵攻、そして四国攻め、徳川家康と同盟しての東国攻めを残すものの、信長の家臣たちの間ではようやくここまで、というホッとした気分もあったかもしれません。しかし信長のさらなる野望は、この段階に至ってもなお拡大するばかりだったようです。

信長の激しい気性や、家臣に対して冷たく合理的に接する態度も変わりませんでした。この時期になって信長は、長年自分に尽くしてきた重要な家臣たちを、能力が足りないとか、昔自分に反対したことがあるという理由をつけて追放しました。残った家臣たちは光秀も含めて、いつか自分も同じように信長から追い出されて殺されるのではないかと、あらためて恐れおののいたことでしょう。

またそのころ日本に来ていた、キリスト教の宣教師による記録には、信長が国内統一を果たしたあとにキリストに替わる神となり、世界征服を目指そうとしたからゼウスの怒りを買って滅んだという、とても信じられないことがしるされているそうです。神になるは別として、信長が海外進出の計画を宣教師へ語ったことは、可能性として十分に考えられます。

(その9)信長を、世のために道連れにした光秀?

後に豊臣秀吉の天下を支えた石田三成もまた「誠」の人として知られています。その三成は、秀吉が信長の後を継いで成し遂げた天下統一、平和な日本の国を、秀吉が朝鮮出兵など多少のむちゃをしても、なんとか保ちつづけようとしました。もう、あの混乱の戦国時代へは戻りたくなかったからです。

光秀も、一番信長の身近に仕えていたからこそ、信長が妄想をふくらませた怪物となっていく様子を肌で感じ(キリスト教の宣教師たちは信長のことを「魔王」と呼びました)、このままでは光秀が信長と共に目指してきた天下統一と、戦乱のない平和な国造りの夢が、最終段階に来て消え去りかねないと考え、主君を裏切る決意を固めたのではないでしょうか。完成が見えた天下統一は他の武将にゆだね、自分は主君に誠をつくしつつ、暴走した魔王と変わりはてた信長と共に滅ぶ道を選んだのではと、私には思われるのです。

琵琶湖のほとりに、わずかに残る光秀の居城、坂本城の石垣。にぎわう城下町に壮大な天守閣がそびえた当時の面影は、今やどこにもありません。

(その10)おわりに

歴史に「れば(何々していれば)、たら(何々だったら)」は無いといわれますが、もし光秀が信長の暴走を止めなかったら? 歴史は、今の日本は、どんな社会になっていたでしょう。信長は自分に反抗した者は兵士でも一般人でも見境なく、何万人も命令で殺したと言われています。信長の独裁政権の下で、秀吉も、家康も出てくることのない、そんな恐怖が支配する戦乱の世が、もっとずっと長く続くことになったかもしれません。

本能寺の変の後、押し寄せる秀吉軍に対し圧倒的に不利な状況となった戦いの中で、明智側の多くの家臣は光秀を見はなしませんでした。
「この人に天下をとらせたい」「この人のためになら死ねる」
戦国時代という人間の欲望が前面に出る世の中で、そう周囲の人々に思わせた光秀という人物は、自分自身の欲だけのために生きるような人、後の世のイメージの「主君殺しの裏切り者」や「天をもおそれない極悪人」ではなかったと、残された史料は語っているようです。

参考文献:「明智光秀の謎」歴史読本編集部編 KADOKAWA
「人物叢書 明智光秀」高柳光寿 吉川弘文館
「本能寺の変と明智光秀」 洋泉社編集部編 洋泉社
「明智光秀「誠」という生き方」 江宮隆之 KADOKAWA
「明智光秀 史料で読む戦国史」藤田達生 福島克彦 編 八木書店
学習まんがシリーズ「レキタン8 明智光秀と本能寺の変ほか」 小学館
コミック版日本の歴史25「戦国人物伝 明智光秀」ポプラ社
「真説 信長12人衆 明智光秀編」インプレス
「歴史読本2014年9月号 特集明智光秀の謎」 KADOKAWA
「明智光秀が織田信長を殺した理由」まんがびと
「講座 本能寺の変 第1巻」鳩山堂
「信長公記」国立国会図書館蔵
「惟任退治記 全訳」歴史読本付録




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