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瞼を閉じれば満ちてくる色

彼女の生まれた病院から家に帰る日、壊れそうな身体に迸るような命を謐かに湛えている小さな娘を、リボンこそかけないものの大切な贈り物のように空色のガーゼケットに包み、病院前の車寄せに走り込んできた白いタクシーに乗り込んだ。

その数日間でいっそう秋を深めた世界は眩い金色に輝き、風に拐われた銀杏の葉が舞い降りながら街行く人びとを浸す。
眠る娘を起こさぬよう私は身動ぎすることを耐えるが、目はフロントガラスに吸い寄せられ、その輝きの一切を追いかける。

運転手が黙ってハンドルを回し、銀杏が両脇を縁どる街道へと迂回する。
車窓はあまねく金一色。娘のおろしたての睫毛に落ちる一筋の金。

仕事で身体を壊し、長期休養と漢方治療を兼ねて、中国辺境地にある国立大学の留学生になった。
トランクを一つ引き摺って鄙びた空港に降り立ち、空港前の車寄せに停まっていた薄い青のタクシーに乗り込んだ。

早春の大地は見渡す限り菜の花の黄色で、その色彩の祝祭ぶりは、見るものの指先まで黄色に染めるのではないかと訝るほどに明るく朗らかだった。
運転手は訛りのきつい中国語で話しながらミラー越しに私の表情を窺い、弾かれたように運転席を離れ、ボンネットの向こうをぐるっと回って私の横のドアを開くと、振りかぶって一面黄色の彼方を指さす。

─見たいんだろう?待ってるから見ておいで。

感情が押し寄せて言葉が退くとき、足が私を選ぶ道がある。
春夏秋冬、雨晒しの風南部風鈴が鳴り響く古びたアパートの前に、のっぽのシュロとずんぐりのミツマタの木が遠い目をして佇む、人気の絶えた道。ここでは俊敏な猫以外ほとんど誰にも会わない。
春になるとミツマタは檸檬色の小粒の花を綻ばせ、遠目からは大粒の檸檬がたわわに成る木に見える。お伽噺で描かれる黄泉の国のように。

昨日、初めて人に声をかけられた。

─この花、いいわよね。死んだおやっさんが植えたのよ。一枝持ってく?あらやだ遠慮しないで。あたしここの大家なんだから。

冴えた返事も明確な意思表示もできないうちに、私の手に二枝のミツマタが握られている。

100歳には手が届かなかった祖母は、80歳代の中ほどあたりから、冬至が近づいてくると私に連絡を寄越した。
休みの日、鋭い棘をもつ枝に負けない分厚いゴム手袋をさげて私は祖母の庭に参上し、1日がかりで3本の柚子の木から瑞々しい黄金の実を収穫し、黙々と台所に運んだ。

翌日はジャムを作る日と決まっていて、60歳離れた2人隣り合って並び、柚子を洗っては切り、煮たり濾したり混ぜたりした。
きっと柚子仕事も今年が最後になるよ、と毎年彼女は神妙に言い、それは困る、まだまだ教えてもらわないと、と私は弱気な祖母を押し返す。結局そのやり取りは彼女の生存により軽やかに撤回され、翌年もまた2人で台所に立つのだった。

とうとう声のかからない冬至がやって来て、1人で台所に立つ休日が訪れた。
2月、柔らかなスクランブルエッグと柚子ジャムを乗せたトーストを少しずつ食べた日、午後に急変した祖母は慌ただしく家を後にし、そのまま柚子の香る家に戻ることはなかった。
美味くできたね、とジャムと私を讃えたのが、祖母との日々の最後だった。

黄色は、私の日常に乏しい色だが、心や身体が弱っているときほどこの色を身に纏って外に出る。山吹色のスカート。レンギョウ色のセーター。黄色と橙色を織り込んだショール。

もう二度と逢うことのない人から受けた優しさほど忘れがたいものはない。
そして、皮膚に触れ、皮膚を覆う黄色は私の錆びかけた記憶に作用するらしい。それ故に私はゆっくりと目を閉じ、懐かしい黄色が手を引く忘れがたい優しさを、瞼の裏のスクリーンに映写する。

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島 凪

'I wish l could see the way l did when l was young─'

島凪さん

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