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なぜ読むか (一回休み)、どうして書くか (また休み)

体調が回復を兆すと、縮こまっていた手が本に延びる。塞がっていた喉が珈琲の通過を許す。ページをめくる指の動きが滑らかになり、芳ばしい液体が胃を静かに満たすころ、〈もう大丈夫〉という言葉が、湖上を渡る風のように心を過る。でも、それはただ過るだけで、決して腰を落ち着けようとはしない ─ なぜなら、それは吹き抜ける定めの風だから。

土曜日、20時。
溜まっていた家事の裾野をわずかに削りとり、読書会会場に向かった。
自転車の前籠に入れた課題の文庫本が、うなだれた電灯の下で白く光る。出かける私の背中を見詰めていた見えない娘の目を、ふと想像する。

枯れてなお枯れ続けている紫陽花の角を曲がり、息絶えた小鳥のように木槿の花びらが散った道を走り、酔って左右に揺れる上気した芙蓉の庭を左に見て、短い橋を渡る。
水面に映る夜空が、滔々と流れていく。川岸で身動ぎしない青鷺が、群青色の景色に杭を一つ打つ。

夫が死んだあと、一年くらい本が読めなかった。文字の連なりは瓦礫の山に等しかった。言葉は使い物にならないがらくた。所有者の知れないはぐれもの。
激痛は、人の過去と未来を消し去り、現在に閉じ込めるものと、ある人が教えてくれた。確かにあの頃の私は形のない悲しみに幽閉され、他人の物語に傾ける耳を、躊躇することなく自ら切り落としたのだった。悔いる己の戯れ言さえ、聞こうとしない役立たずの耳を。

最初の祥月命日が過ぎてほどなく、参加者10人ほどのささやかな読書会の席に着いたとき、私は事前に知らされていた課題本を殆ど読めてはいなかった。末席で身を屈め、〈いかに読んだか〉という話に、形ばかりの耳を傾けていると、いつしか、〈なぜ読むか〉という話題へと流れが変わっていることに気づく。

高校教諭である50代後半の男性が、ジントニックをグッと煽って語り出す。

─夜にね、最寄り駅に着くじゃない。そこから家までの道、だんだん寂しくなるんだ。単調な住宅街で、いやに取り澄ましていて、なんかつまんないんだよね。子どもの笑い声すら聞こえなくてさ。で、そういうとき、嫌なことばかり考えちゃう。悩んでることとか、行き詰まっていることとか、いろいろ。でね、僕は別の人になるわけ。北京の路地で暮らすひねた少年になって、爆竹を投げながら旧正月の街を走ったり、ニューヨークの47ndストリートあたりを徘徊する湿気たギャングになったりね。違う人の人生を仮に生きる。最高じゃない?家に帰りたくなくなることもあるけど、まあドアを開けるよ。で、仕方なく現実を生きて、うんざりしてきた頃に本を読む。違う人の人生を覗き込んで、高揚したり安堵したりね。それで寝ちゃう。あとは電車で読むかな。暇さえあれば本を読む。つまりさ、ずっと僕の現実を生きるなんて無理なんだよね。だから本を読む。現実を手放すためにね。

私は屈めていた背中をそっと伸ばす。

今回の読書会の進行当番は、くだんの高校教諭で、彼の選んだ本は、ロサンゼルスを舞台にした疾走感のある探偵小説だった。
参加者の感想が概ねよいことに酔いしれ、ますますジントニックのピッチが上がる。やがて出来上がった幸福な酔っ払いは、いやいやよかった、あなたもこれを気に入ってくれて、とグラスを蕩けた目の高さまで掲げ、私に向かって笑いかけながら、月夜の海月のようにゆらゆらと揺れる。

─最近ちょっと本が読めなくなっていたんだけど、深夜ラジオでこの本を紹介していてさ、読んでみたら面白くって時間を忘れて読んじゃったんだ。

そうした問わず語りを延々と、心底愉しそうに続けている。

職場や家庭のさまざまな懊悩を、過去に悲しみを抱えた探偵のあとを追いかけることで、彼は束の間忘れることが出来たのだろうか。
彼の話に頷きながら私は、その人の胸のうちに潜む見えない喜怒哀楽を、目分量で量っている。

人は時として、持って立ち上がれないほどに重い人生を抱え込んでしまう。すべてを背負い込み、その圧倒的な重みに潰されてしまうことさえある。だから手放すのだろう。手放して、自分の人生から期間限定で立ち去り、知らない道を歩き、見たことのない景色を眺める。
そこで見聞きしたことや、沸き上がった数多の感慨を色とりどりの薄いセロファン紙で包み、そっとポケットにしまう。そしてときどき指を伸ばし、セロファンに触れてみるのだ。セロファンはカサコソと囁く ─ ここに物語がある。あなたのものではない、しかしあなたのための物語が。

 <なぜ読むか>という永遠の問いに対する答えを考えながら、私は来た道を戻る。
杭のような鷺が消えた川は溢れて空を浸食し,酔っ払った芙蓉の花は正気を取り戻して鎮まり、木槿はアスファルトを黒地に白の水玉模様に変えて、紫陽花は相変わらず枯れ続けている。
昼間の熱が残る自転車を車庫に入れ、鍵を抜きながらなお考える。答えはない、といういつもの答えに静かに接岸しようとしたとき、私は自分の人生を麻痺させるために本を読んでいるのかもしれない、と思う。微量のモルヒネのように、過去の鈍痛と現在の激痛を束の間やわらげるために。

先月、北に向かう新幹線に乗るために、都心行きの電車に乗った。仕事に行く人は職場に、勉強する人は学校に押し込まれたあとの電車はがらんとしていて、何れにも用のない人たちが座席を斑にしている。
とある駅で、高校の制服を着た少女が影を曳いて乗り込んできた。私の斜向かいに座った彼女の髪の毛は少し濡れていて、目元も僅かに濡れているような気がする。
座るとほぼ同時に彼女は鞄から厚い単行本を取り出し、ひらいた場所に目を落とした。ただその眼差しはわずかに宙に浮いていて、しかも文字を追いかけはしない。あたかも20秒ごとに天地が逆になるオートメーション機器のように、定期的に右手の指がページの左端をつまみ、さっとページがめくられていく。熟練した職人の手さばきを思わせるその動き。
彼女は物語を必要としないのかもしれない。必要なのは、「本を読んでいる」と見る人に思われることなのかもしれない。

読書は、孤独であることを肯定する。隣に友人がいないことを不問にする。だからできるだけ厚い本がいい。厚さは、読書の深さに比例するだろう ─ 実際、そのようなことはないにしても。

本を読む理由はきっと、人の数ほどあるに違いない。

家に帰ると、23時を告げる時計の正面で、娘がいつもの本を読んでいた。何を読んでいるの?とは訊かない。その代わりに、このごろ同じ本を読み返してばかりの彼女と、昨日交わした会話を反芻する。

─その本,気に入っているの?
─うーん、ていうか、新しいものを読みたくないんだよね。
─そう?
─そう。新しい場所に行きたくないというか。この先どうなるかがすべてわかっている、新鮮味のない安心な本を読んでいたい。

難病に幽閉される不自由な現実世界を離れ、空想世界における完璧な自由のなかで、娘は驚くほど朗らかに生きている。しかし、その空想世界から無慈悲にも追い出されるときがある。追い出され、帰着した現実世界の砂漠の上で、娘は本をひらく。水の在りかを的確に指南し、夜の寒さを然り気なく告げる、彼女にうんと優しい本を。
空想世界から彼女を追放するもの ─ それは、母親の私の病だ。

翌朝、珈琲を冷めるに任せ、朝からソファーに横たわる私の近くで、娘はまた同じ本をひらいている。
正確な方位磁石だけでなく、彼女もまた微量のモルヒネを必要としているのだろうか。あるいは、悩んでなんかいない、ただ本を読んでいるだけだと、私の罪悪感を回避させるための悪意のない嘘をつくために。

考えまい。一回休み。

月曜日。8時。
〈もう大丈夫〉という言葉が過らないまま、娘が淹れてくれた珈琲をほんの少し飲み、課題の文章に目を滑らせて、朝の坂道を自転車で下る。休日出勤のあと、今日はとある文章教室に初めて参加する予定だ。
加速するほどに強くなる風に身体を粉々にしながら、私を見送る娘の見えない眼差しを、ふたたび想う。

日射しを浴びてなお枯れ続けている紫陽花の角を曲がり、道を覆っていた木槿の花びらが忽然と消えた道を走り、朝からほろ酔い加減の芙蓉が咲き乱れる庭を左に見て、短い橋を渡る。
今朝は青鷺の姿はない。その代わりにまだ若い、華奢なススキが風に傾きながら、私を4年前の夏の終わりに誘う。

読書会を契機に読書の悦楽を思い出したものの、その2年後の晩夏に娘が体調を崩し始め、私はまた読めなくなった。言葉はふたたび色と温度を失い、にわかによそよそしく、刺々しくすらなる。

あれは、生きたまま身体ごと壁に塗り込められたかのような日々だった。
誰かが差し障りなく生きる日常の傍らで、誰かが窒息しそうな状態で埋まっている。人は表面だけ見る生き物だと思う。塗装の美しさを愛で、掛けられた絵の美しさを愛でる。その奥の微かな異変に気づき、つるはしを手に、見目麗しい壁を壊してみようとする変わり者など、滅多にいない。私は壁の中で孤独だった。

それでも、壁を爪で引っ掻くような頼りなさで書き始めたのは、孤独な壁の内側で思うことを、いつか娘に伝えたいと願ったからだろうか。
話し言葉は、今思うことを今伝える。書き言葉は、今思うことをいつか伝える。私は、私の内側に揺蕩う深い思いを伝えるまで、長い時間が必要だった。
そして、〈書く〉という〈掻く〉行為をたゆまなく続けていけば、壁の中にいる私という人間を掻き出すかもしれないという期待。

書くこと。

初めてお会いする3名の方の、それぞれ書かれたものを読みながら、私は幸福ですらあった。
長くはない人生の限りある一日の少なからぬ時間を使って、言葉を掘り出し、あて嵌め、それを遺すために奮闘している人たち。それはもしかして、ずいぶんと非効率的な生き方かもしれなかった。誰が読むかも分からない言葉を遺したところで、いったい何になるのだろう?

それは3年前の冬、珈琲を何度も溢してところどころ茶色に染まったノートを鞄にしまいながら、その人は独り言のような声の調子で、あくまでも淡々と、私に向かい語り始めた。

─書けば忘れることができるんですよ。嫌なことみんな書いてしまえば大丈夫、手放せる。嫌なことって、ほんとうは覚えておかなくちゃならないんです。でも思い出したくはないじゃないですか。二度と思い出したくはないんです。
書くことは、思い出さないまま忘れることを許してくれるみたいな。私は書くことで、ずいぶん救われています。

夫に火をつけられた大好きな母親が、激しい熱傷の果て、九死に一生を得て退院した日に、その面立ちの変わりように恐怖を覚え、お化け、と泣き叫んでしまった6才の自分を未だに許せないでいる、と以前の幼い少女は言っていた。それから10年が経ち、そろそろ許することができそう、と私の目の前に座る若い彼女は言う。

遺すために書くのではなく、ただ忘れるために書く人もいる。忘れることで自分を残すために。

そんなことを思いながら、むかし書いたものの続きを書き始め、書き続けているうちに200枚になったという方の前で、眩さに目を細めながら私はなお考える。

未来の娘に届ける手紙として書き付けていた言葉は、しだいに、過去の私に手向ける花束のようになってきている。その花束は、色とりどりの〈懐かしさ〉でできている。
懐かしさとは、二度と手に入れることのできないもの、失われ、喪われ、取り返すことも取り戻すことのできないものに対して覚えるものだ。そしてそれは脆く、儚い。
だからこそ、その懐かしさを書き残しておきたいと思う。それは物や景色ばかりではない。取るに足りない私の悲しみの、戸惑いの、喜びの感情も、また。
だが、ほんとうに書きたいことは、それだけなのだろうか?

読む人の数ほど、読む理由があるように、書く人の数ほど、書く理由があるのだろう。

言葉に頭を火照らせながら、夕方の街を自転車を漕いで走る。短い橋の下で子どもたちが、花火のような笑い声を茜空に打ち上げながら水遊びをしている。こんなに近いのに、歓声が遠い。

火照りが冷めない理由は熱だった。
珈琲の飲めない朝が、またやってくる。七日目の蝉の絶唱と、本を読む代わりにギターを弾きつつ歌う娘の声が聴こえてくる。
言葉が流れてくる。季節が流れていく。言葉と季節に乗って、私もまた流されていく。

泣くまい。また休み。

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