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手離したものを二度手離す前に

むかし、この家には藤棚があった。

3本の藤の木が織り成す幾何学模様の藤棚の下で、祖母と向かい合ってするままごとのお碗に、揺れる藤の葉に濾されたレース模様の陽が降り注ぐ。
祖母はそっとお椀の中の陽をすすり、小さなお母さんの私に三つ指をついて、ご馳走さま、と頭を下げる。早春の雪道のような色合いの髪に、うす紫の花びらが蝶のように留まる。

あの藤の木が1本になったのはいつだったのだろう。私がままごとに飽いたのはいつのことだろう。

むかし、この家には柿の木が2本あった。

柿が口に合わない祖母にはそっぽを向かれ、牡蠣にも柿にも目がない祖父からは惜しみない愛を注がれていた。

幅広の柿の若葉は力がみなぎっていて瑞々しく、秋にはいち早く早くパウル・クレーの絵のような暖色に染まった。小さな私は、選りすぐりの葉を集めては、恭しく机の引き出しにしまう。

凍えるような真冬の四角形の中で、柿の葉は何を思っていたのだろう。
春、引き出しを開けると、波打つ形で乾ききった葉は身動ぎもしなかった。褪せて強ばる冷たい葉を新緑の庭に放つ。なんであんなに夢中になっていたのかな、と半年前の幼心を、少し大人に近づいたつもりの少女は訝しく思う。

むかし、この家には梅の木が2本あった。

1本は艶めくピンクのしだれ梅、もう1本は腰の曲がった乳白色の梅。前者は華々しく咲いて威勢よく散り、濃い緑の葉を繁らせた。後者は人知れず蕾を緩ませいつの間にか散り、溜め息のような小粒の梅を育てた。

母はめっぽう梅が好きだった。入梅のころになると祖父母の家に遠征して梅の木の下に立ち、爽やかな香りを身にまとい、両手に重い籠を提げて帰宅する。

水で濯いで、陽に晒す。朗らかな梅の表面が穏やかな表情に変わると、母は隙間なくそれらを瓶に詰め、梅干し、梅ジュース、梅酒へと子孫を増やしていくのだった。
瓶の蓋に日付と種類を書くのは私の仕事だった。『1985年/梅干し』と黒いマジックで息を詰めて書く。その瓶の隣で、1969年生の梅酒が、怒ったような暗い赤を内側に湛えて沈黙する。

むかし、この家には柘榴の木があった。

庭一番の大樹ながら、肌目細やかな幹を持つ、淑女のような佇まいだった。
同居していた画家の叔父は石をよく描いたが、烏瓜や柘榴の実も大切なモチーフだった。
休みの日、河原へ石を拾いに、林へ烏瓜を採りに、祖母に柘榴を貰いに私は叔父を先導する。良いものが手に入ると、無口な叔父は早足になり、私は小走りで追いかける。

柘榴は皮にナイフで切り込みを入れ、祈るようにして二つに割いた。中から小さなルビー色の種が堰を切って溢れ出し、机の上を煌めく朱に染める。

絵筆を持つ叔父の背中は無防備だった。日々腐敗に向かう命を絵の中に永遠に留めようとしている人の意識は、すべて柘榴に捧げられる。

6年前の夏。

今になって思えばあと数時間で末期の息を吐くという時に、「石榴と梅と柿を伐ってもいいわ」と祖母が言った。
60年前に祖父母が植えたこれら庭の木は、老いてもなお盛んに枝葉を拡げ、隣の庭へ越境し、送電線にも届きそうだった。幹の内部では腐食が進む。それでも祖母は躊躇った。木を伐ることは、身を斬られること等しかったのだろう。

なぜ?と私は訊いたはずだ。あれほど嫌がっていた果樹の伐採を赦すとは。しかし祖母はもう答えられず、それが最後の言葉になった。
大切なことを伝えるのは後回しにしないほうがきっと良い。

母の強い後押しもあり、傾いた白梅の木を、暮れに倒した。柘植の木もどどめを荒らしていたので、根元から伐り倒された。そして2月の末に柿の木を、最後に柘榴を伐った。

伐採された枝や倒された幹が地上に横たわると、空が大きくなった。庭を深海色に染め鬱蒼とさせていたのは、祖父母たちが愛して止まなかった老木たちだったとは。この光あふれた明るい庭を、死にゆく祖母は、生きる私に贈りたかったのかもしれない。

思いを巡らせながら、奇妙に明るい庭を眺めていると、湿った風が心を吹き抜けていく。胸を締め付け身を斬られるような思いを、私が祖母の代わりに引き受ける。

カズオ・イシグロは、『浮世の画家』や『遠い山なみの光』を、五歳まで暮らした記憶の中の日本を舞台として描いたものだ、と語った。彼に残された日本が失われてしまう前に、それを書かなくてはならなかった。
木を倒し、木の記憶を手離してしまえば、木を見上げていた人びとの気配をも永久に失ってしまうだろう。失いたくはない。紫と鼠色の午後を、紫蘇の香り立つ夜を、暖かな葉が懐く小世界を、それらを見詰めていた人びとの柔らかな横顔を。

だから私はペンを握る。

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