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劇場型のあなたの人生に手を振る

あの人はゲキジョウ型なのでしょうね、と友人が書いた言葉を、私は劇場型、という漢字をあて嵌めて深く納得していた。ほんとうには彼女は劇場のようなひと。
のちに、友人がいわんとした〈ゲキジョウ〉は〈激情〉であると知ることになるのだが、いったん腑に落ちた感情は容易には動かない。
ほんとうに彼女は劇場のようなひと。

─細い道の行き止まりに建ち、年季の入った外壁を夕日に晒している。縦横に傷が行き交う小豆色の扉。風雨に叩かれて荒んだ古い硝子。軋む音に目を伏せて扉を開けると、黄身色のライトが足元を照らし、夥しい数のチラシで埋まる壁の間からサイズの合わない制服を着た年齢不詳の女性が現れて、私から差し出されたチケットをチリリともぎる。重たい黴と香水の匂い。予想よりも遥かに沈む椅子に座り、転がってきた空き缶を爪先で蹴る。俳優が場内の空気をかき集めてお辞儀をし、お座なりの拍手と社交辞令のカーテンコールが一回。舞台がはね、欠伸と服の皺のばしを終えた人びとが出口に吸い出される─夜の街は吸引する力が強い─黄身色のライトは消えて冷えた鉛の塊になり、赤いカーペットは血糊の色に変わる。空調が切れ、従業員が去り、重い扉がゆっくり閉まると、貼り付けられたチラシがふわりと風に翻って停止する。最後の一拍を打ち終えた心臓のように。
そうしたすべてを内側に湛えるひと。

過去にも確かにそういうひとが一人いた。

ヒルダの登場の仕方は鮮烈だった。
白いスーツにロイヤルブルーのハイヒールと帽子といういで立ちに、滴るような赤で染めた口を大きく開け、アイリッシュ英語で私の名を呼ぶその人の、高々と挙げられた手の10枚の爪には真紅のマニキュアが輝いている。ラズベリーの蔦のからまる閑とした郊外の駅で、明らかに彼女は数センチほど浮いていた。暗い煤色の目は豪雨の日の濁流のようで、目を合わせれば最後、否応なしにすべてを飲み込まれてしまいそうだ。

抱きしめられたときに私は噎せた。これはいったいどういう匂いなのだろう─高貴と低俗がスクラムを組んで鼻腔に体当たりをしてくる。
初めましてともお疲れさまとも言わずに絡めた腕をほどくと、さてとお嬢さん、パブに行くわよ、と私の背中を押したとたん、彼女は一連の動きを止めた。痩せすぎね。骨が分かるわ。一ヶ月後、この骨を贅肉で埋め立ててみせる。そう言って笑うと、肩甲骨を右、左の順でなぞりながら、
─あなたをボーンと呼ぼうかしら。
私はまだ自己紹介すらしていない。

レディ・ボーデンならぬレディ・ボーンとなった私は、そのまま駅の傍にあるパブに誘われた。カウンターに集う、止まり木をへし折りかねないほどに恰幅のよい鳥のような人びとが、濡れ羽色のGUINNESSがなみなみと注がれたジョッキを手に一斉に私たちを見る。舞台からそのまま降りてきたような50代後半の女性と、熟れたプラムの目をした黒髪の女の子の二人組。その夜きっと幾つかの家庭で、あのシーンは傑作だったよとおもしろおかしく語られたことだろう。
─で、その東洋の女の子は、BUSMILLSをすいすい飲むんだ。顔色一つ変えないで、まるで水みたいにね。

当時私はダブリンにある大学院に通い、個人経営の学生寮のような家で生活をしていたのだが、世話好きな女主人がアイルランド共和国の西の果てに住む大学時代の友人のことを、就寝前に飲むポートワイン片手にしばしば私に話して聞かせたのだった。
よほど興味深そうな顔をしていたのか、単に暇を持て余しているように見えたのか、私の預かり知らないところで女主人はヒルダと話をつけ、まとまった休みになるたびコノリー駅から西に向かう電車に荷物ごと押し込まれた。さあさあ楽しんでいらっしゃいよ、と。
かくして、「アリアを歌ったって隣に聴こえないくらいの長閑なところ」「海の近くで岸壁からアメリカ大陸が見えるかも」「広い庭では兎がぴょんぴょん跳ねている」「賢いアイリッシュ・シープドッグを2匹飼っていて」「ヒルダは5年前にとある料理コンテストで優勝したの」「彼女は障碍者施設の長で素晴らしいゲール語を話す」「夫は牧羊家で見事なアコーディオン奏者」という、女主人の問わず語りを検証するような旅に私はしばしば出ることになる。

萌葱色の外壁にすみれ色の扉の色が微妙にすれ違うヒルダの家の2階、南向きのゲストルームが私にあてがわれた。窓から眺める丘陵は荒涼としながらも筆舌尽くしがたい美しさで、想像上の「嵐が丘」の舞台と似て、ついぞ飽きることはなかった。
噂に聞いていたアイリッシュ・シープドッグは、姿かたちは瓜二つでありながら性格の全く異なる2匹だった。〈豪傑〉がヒルダの膝の上によじ登っても、〈控え目〉はいいよ、といわれるまで犬の正座で待っている。〈豪傑〉が1階と2階を自由に行き交うのを、〈控え目〉は階段の下で静かに見詰めている。
果たして控え目が決して2階に上がってこないことを学習した豪傑は、私のベッドの下に、好物の骨の残りを隠すようになった─。レディ・ボーンの下に残り物のボーン。

骨を贅肉で埋めてみせると啖呵を切っただけあって、食卓の豊かさは私を喜ばせるよりもむしろ怯ませるのに十分だった。馬鈴薯が主食の国だけあって、呼ばれて席につくとテーブルの真ん中には茹でたての山盛りがホカホカと湯気を立てている。目の前の皿には肉と、豆や野菜の茹でたもの。そこにくだんの馬鈴薯を移し替え、フォークで潰して肉汁とともに食べる。一番小さな馬鈴薯にそっと伸ばされた私の手を押し返し、LLサイズの馬鈴薯を皿に滑り込ませて満足そうに笑う彼女の目に毒はない。

料理コンテストの優勝景品であるシステムキッチンは、象牙色の歯の中にある唯一の金歯のように古い家屋のなかでひときわ光彩を放っていた。彼女はそのキッチンが何よりも自慢で、汚れた指で触れるのが憚られるほどに磨き立てていた。
障碍者施設の施設長だった彼女は、スーツに高いヒールという装いが定番で、朝食を終えると呑気なスリッポンから攻撃的なヒールに履き替え、カツカツ踵を鳴らしながらキッチンを歩き回った。
優秀なアイリッシュ・シープドッグとはいえ、2匹の犬たちはときどき粗相をする。キッチンに匂いのある水溜まりが形成されているのを発見すると、彼女は悲鳴とともにヒールを脱いでそれを調理台の上にほとんど放り投げ、床に必要量以上の消毒薬を振りかけ、鬼の形相でモップをかけるのだった。そして調理台の上のヒールをつかみ、私のキッチンを汚すなんてまったく、と憤懣をあたりに撒き散らしながらそれを履いて出ていく。

洗濯物が庭ではためく風景があの家には存在しなかった。汚れた服は人から剥がされ洗濯機に移り、洗濯機から乾燥機に移され、乾燥機から部屋の隅に移動し、降って融けない雪のようにみるみる嵩を増していく。くしゃくしゃな服はざっとアイロンで伸ばせばよい話だ。クローゼットは用済みの服の一時保管場所として機能しているらしい。スーツも帽子も運命共同体で、積みあげられ、押し込まれ、置き去りにされるそれらはどこか衣裳替えの多い舞台裏にも似ていた。
私の服も同じ穴の貉かと思いきや、特別対応の恩恵を受けた。乾燥機までは一緒だが、そのあとは好きにしてよいと言う。私は一枚一枚丁寧に畳み、箪笥代わりにしていたトランクに詰める。折り目のついた服を着ている私を見たヒルダは、「いやだ折り目がついちゃってるじゃない」とさも気の毒そうに声を落とすと、あっちの隅を使って良いわよ、とダイニングの隅を指差し、ごめんね気づかなくって、と言って邪気のない悪戯っ子のように笑う。

最初の滞在はイースターの頃だったが、5日目にはすでに環境不適合を感じ始めていた私にとって、予定されていた三週間先の期限は日に日に遠退くように思えた。ルバーブのジャムが美味しいと呟くと食事のたびに山のようなジャムが供されるのにも、瀕死の子羊を夜通しストーブの前で暖めながら介抱した翌日に子羊のグリルを舌鼓を打って食べるのにも、文化交流と称して近隣の小学校から高校、彼女の勤める施設などに連れ回されるのにも、いちいち当惑する。

ただ、そうした当惑を通り過ぎるとだんだん愉快になっていく。それは、いくら進んでも出口の光を見つけられない周到な迷路で途方に暮れながら歩き続けているうちに、迷っていることそれ事体を楽しめるようになっていくあの心の解放にも似ていた。
ヒルダはまさしく劇場のような人だった。にっこりと微笑みながらチケットをもぎるや否や、壁や天井を指差す人の手を掴み取り、殆ど強引に客席に座らせ、山のようなスナックを問答無用で押し付けて、予測不可能な展開に継ぐ展開の演劇をしばし鑑賞させ、幕が下りるとドアを開け放し、ふらりといなくなってしまう。
ヒルダの不可解さが了解になると、今度は自分自身のありきたりさが目につくようになる。衝突を予備的に避ける空間を死守しながら、気配りと言う縛りから逃れられない自分を呪いながらもしかし、私はどうしてもそこから逃げ出すことができない。

 日本でいう濁酒を、〈豪傑〉と〈控え目〉がシュガー・フロスト・ドーナッツのような姿で眠るダイニングで、ヒルダの配偶者とちびちび飲みながら過ぎていく深夜、酔って眠りこんだその人の隣にある朱色のアコーディオンを脇目で眺めながら、廊下の突き当たりにあるキッチンをから発せられる象の歩行のような音を聞いている。
ヒルダが夜中にソーダブレッドを焼くのは、叩きのめすことが出来るからだ。小麦粉、全粒粉、重曹と塩、バターミルクを入れた生地をひとまとめにすると、彼女は打ち粉を振った板に向ってその生地を力任せに叩き付けた。叩くたび、食器やフライパンがガタガタ震え、金属と陶器の呻き声となって、廊下を伝い響いてくる。そして私は、ある夕餉の席で彼女に言われた言葉を思い出している。
─ためらいは美しくない。乱れないように酔わないようにすることも、 別れないために出逢いを避けることとか、傷つけないように言葉を飲み込むこともね。

それは、いつまでも私を開示しない私に対する非難のようであり、私が私を越えていくためのエールかもしれなかった。どちらを取るかは私次第であったが、私は後者として有りがたく両手で受け取った。なぜなら彼女は扉を大きく開けて人を招き入れ、豊かな時を約束する劇場で、その演目に私は決して裏切られることはなかったのだから。

帰国した私のもとには、ヒルダからは毎年クリスマスカードが届いた。
老いとともに目の健やかさは失われ、白内障に加えて緑内障も患った彼女からの最後のカードには、〈灯りの切れた室内で一人過ごすような頼りない世界ですが、あなたと共にハンカチを濡らして三度観た"タイタニック"の映画を、記憶のスクリーンに映写して心を慰めています〉と書かれていた。

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