見出し画像

そばだてる耳に向かい呼びかける声

連休目前にして体調を崩した私の周りで、色も匂いも薄い、希釈しすぎたような時間が流れていく。

娘のことになると俄に焦燥しても、自分のこととなると忽ち諦観する。悪くなってきたな、と呟くと、どうしようもないね、と木霊が還ってくる。抗わないの?とけしかけてくれるお節介な私は、とうの昔に再発を繰り返す私を見限り、きれいに荷物をまとめて出ていった。

正午の針が重なるとベッドから起き上がり、針が直角になると再び起き上がり、夕闇に針の先端が溶けると三たび起き上がって台所に降りていく。
大丈夫、と尋ねられる前にそう答えるのは、不安の予備的回収のためだが、余さず回収できるはずもない。音楽を聴いている娘の、ほんとうは聴いてなどいない硬い身体から視線を外す。強ばった肩甲骨。力の入った指の関節。

娘が眠り、犬が眠って、今日という日が終わり、私も横たわる。
くたびれたな、と思うのは、一日を振り返っての感慨ではなく、人生そのものに対する異議申立てのようなものかもしれない。生きることは容易ならざることだ。病を得ながら生きて、病と闘う子を育てていく、ということの困難について私は闇の中で考える。

時折、もういいかな、と思ってしまうのは、深夜に蠱惑的な酒を煽るのにも似ている。おしまい、という言葉は砂糖菓子ように甘く、ほろほろと崩れて衰える私を満たす。それを口にするのを禁じながらも私は、自分の最期のときについてなおも考え続ける。

そんなとき、イタロ・ズヴェーヴォの『ゼーノの意識』を思い出す。

“人が死ぬときは、死について考えるよりも他にすることがたくさんある。父親の意識はすべて呼吸に割かれている。”

死に近づき、己を救命するための狂おしい呼吸もいまや絶えようとしたとき、私とて死について考えることはないだろう。むろん、生きることについても。ただ、死の間際に臨んだとき、見えなくなるのと聞こえなくなるのとのいずれが先だろうと、そんなことをこの頃思う。

見えなくなれば、空を、木を、あなたの顔を失う。でも、あなたの声が聞こえなくなる方が辛い。最期まで、私のすべてを手放すその瞬間まで、あなたの声を聞いていたい。

親など、うんと馬鹿でなければ務まらない。娘の声は、私の知る限り最高のものだ。少し低い、微かに響く話し声。スローな曲を歌うときの、僅かにざらっとした声の肌目。歌い上げる際の、眩く羽ばたきながら上昇する声の輝き。

幼いころからずっと歌っていた。
家から実家に向かう、がらがら電車のなかで即興の歌を歌い拍手喝采を浴びたときの嬉しそうな顔。ジエットコースターの暴れる座席のなかで絶叫の代わりに絶唱していたときの可笑しさ。音響の優れた舞台であるバスルームで開催されるソロライブを聴きながら夕餉の支度をする至福。
最期のその一秒まで、彼女の声は失えないと思う。

死とは、声との別れでもあるのだろう。

死に別れた人の声を、私は忽ち忘れてしまう。声色はみるみる褪せ、声調はすぐに波形を失い、笑い声も誰かのそれと曖昧になる。もう一度聴けばその人の声だとわかるかもしれない。ただ、聴き終わったとたん、声は乾いた熱い砂に撒いた水のようにたちどころに消えてしまう。声は、私の中でどうしても保存することができない、喪う定めのものだ。

辛うじて記憶しているのは、発音の特徴だろうか。祖父は、Sを、THで発音するひとだった。微かに舌を歯の間に挟むことで生まれる緊張もしくは弛緩は、聞くものの耳に、前のめりや躊躇うような感じを与えた。祖母はその反対で、隅々までクリアに話した。「ゴニョゴニョ言うのが嫌いなの」と言ったときの「嫌い」2文字の発音が、剥がれずに鼓膜に付着している。恐ろしいことに夫の声は全く思い出せない。他方、アイルランドの寮母さんの、迫力ある声は記憶の入り口に根を生やしているし、フランス人留学生の友だちが、私の名を呼ぶ舌足らずの発音はうっかり再現できそうだ。

ただ、たとえ再現できたとしても、それを面白がって手を叩いてくれる当の本人たちはもうこの世にいない。忘れてしまった祖父の、祖母の、夫や寮母さんの声が、どのようなものであったかもう一度確かめることができない。

老いて衰えた母と暮らすようになって、耳が遠くなったばかりか、話し言葉も戸惑い、いっそ狼狽えがちになってきたことに気づく。自称・地獄耳で、澄みきった井戸水のように清明に話す人だった。

母は生きているが、母の若かりし頃の溌剌とした声は、盆に返らない覆水のように、残滓もろとも失われてしまった。声との別れは死に限らず、生きていても辛い別離を強いるものなのかもしれない。

闇に溶けていた部屋の、レースのカーテンを閉めただけの北の窓が、白くなって浮かび上がり、自立する。朝は、闇の中で融合していたものが分解する時間だ。縺れ合い絡まりあっていた声をめぐる思念を断ち切るように、娘が、お母さん、と呼びかける。温かな慈雨のように柔らかく降り注ぐ声。

─お母さん、お母さん、気分はどう?

失われた声は取り戻せない。彼女がいなくなっても、私が消えてしまっても。だから、生きている限りこの耳をそばだて、呼びかけるあの声を受けとり続けよう、と身体を横たえたまま思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?