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西瓜を抱いて漂う人びと


9月2日。

大きな西瓜を抱えて、賑やかにやって来ていた家族が、やって来なかった夏が終わろうとしている。
決して出ないことはわかっているのに、そらで覚えた電話番号を押し、耳に馴染んだ声が聞こえるのを待つが、〈この電話番号は現在使われておりません〉と、あらゆる感情を排した声で、機械は私に諦めることを促す。

国を逃れて来日し、難民許可申請をしたが不許可となり、行政訴訟を起こして判断の見直しを求めていた父親と、別の国から日本に渡り、超過滞在となっている、艶やかなハシバミ色の目の母親。そして、日本生まれで、滑らかな蜂蜜色の肌を持つ小学生の姉妹が、少しずつ皺を増やし、少しずつ背丈を伸ばしながら毎年必ずやって来ていた夏は、来訪を心待ちにする夏から、懐かしむための夏になる。
消すことの出来ない黒いインクで、濃いピリオドを穿たれて。

 こんなに大きな西瓜、とても事務所の冷蔵庫には入らないなあ、と大袈裟に驚いてみせても、それは〈喜びの照れ隠し〉と受け取るほどに善き人びとだった彼らは、夏のあいだ、二度は西瓜を抱えて現われ、そのたびに必要のない長居をした。

あるとき、手土産に西瓜を選ぶ理由を訊ねると、即座に答えが返ってきた。
─ 色が綺麗でしょう、美味しいでしょう、みんなで食べれるでしょう、お腹がいっぱいになるでしょう。これより良いもの、他にありますか?

それから、キンと冷えた麦茶のピッチャーを4人で空にすると、父親を先頭に再び一列になって、あたかも涼風の吹き渡るハイキングコースを歩くかのように、灼熱の横断歩道をゆうゆうと渡って帰っていく。
今になって思う。あれは彼らにとっても私たちにとっても用のない、しかし必要な長居だったのだと。

この春、妻は妻の国に戻され、夫は夫が逃れてきた国に送還された。姉妹は母ととも日本を離れた。その後の彼らの行方はわからない。

何回目かのアナウンスをもう一度聞き終えてから接続を絶ち、電話番号を連絡先リストから削除する。
大脳皮質に残された数字の羅列は、鎖の切れた真珠の首飾りのように、いずればらばらになって、消えてしまうのだろう。
そして、渡されたときの西瓜の重さも、この手は忘れていくのだろう。

〈夏休みの思い出〉という題の絵が夏休みの宿題だったころ、私は毎年のように西瓜を描いていた。

単身での海外赴任が続く父と、フルタイムで働きはじめた母を持つ、小学生の私の夏は、家族旅行など望むべくもなかった。来る日も来る日も、ラジオ体操会場と学校のプールと図書館と祖父母の家を、せっせと巡って、過ぎていった。

6時、体操カードを首から下げて出かける。8時、出席票をプールバッグに入れて出かける。10時、図書カードを手提げに収めて出かける。そして12時ごろ、三つ年上の兄とともに電車に乗り、祖父母の家に向かう。

母もまたそうだったが、祖母はカルピス教なるものがあるとしたら、誰よりも敬虔な信徒だった。
日に焼けた腕を伸ばし、蝉の鳴き声に似た音がするブザーをジッジーと押すと、黒く光る廊下の向こうから、よく来たね、と声が飛んでくる。
それから、パカッと冷蔵庫を開ける音、カラカラと切子のグラスに氷を放る音、トクトクとカルピスを注ぐ音が聞こえる。
汗の滲んだ真っ赤な顔で台所に足を踏み入れれば、白いグラスが涼しげに二つ、磨きぬかれた机の上に並んでいる。
〈体によい乳酸菌がたっぷり入っている〉その飲みものの最後の一滴を飲み干すまで、私たちはお昼ご飯にありつくことができない。

満腹になった兄と私は、雑木林に面した六畳の小部屋で昼寝をした。
仕切りのない隣の部屋は、保存食の貯蔵場で、梅干し、梅酒、梅ジュース、花梨酒、らっきょう漬、各種ピクルス、糠床の甕、赤味噌、瓶詰めジャムなどが、ずらりと並んでいた。
祖母はすべてに渡って几帳面な人だった。真っ白なエプロンの、腰のあたりの蝶々結びはいつも寸分の違いなく左右対称で、瓶や甕は常にきれいに拭き清められており、向きも間隔も並び方までも、見るたびに全く同じだった。
私が横たわる位置から見えるのは、ピクルスとジャムの瓶の群れで、宝石のように輝くピクルスを眺めては唾が湧き、鮮やかな色のジャムを見詰めては涎を垂らしそうになる。
ずっと眺めていたい。でも目を離したい。やがて、眠りの引力による落下に身を委ね、蒼い夢の湖に向かってゆっくりと腕をかく。

お八つは西瓜が多かった。
配達などなかったはずのあの当時、大きな西瓜を週に何度も調達するのは、老いた夫婦にとってはさぞかし負担だったことだろう。
舞台裏の苦労を知らぬまま、私たちは命ぜられるままに席につき、勧められるままに西瓜を食べた。
また西瓜かあ、と私の中の横暴が聞こえよがしに呟いてみても、祖母は聞きたくないことは器用に聞き流す術に、おそろしく長けていた。

タプタプになったお腹を抱えて、夕方の電車に乗る。窓から見える空は燃え、座席は茜色に染まり、西陽を背中に浴びた人びとの黒い顔が、ときどきガクンと傾く。

夏休みが終わり、廊下に貼られた夏休みの思い出は、水色で溢れていた。青い空、青い海。青いプール、青い川。そして黒を背景にした色とりどりの花火の絵。
真っ赤な西瓜を画用紙いっぱいに描いた私の絵は、残酷な子どもたちの容赦ない笑いを誘ったが、図工の先生は笑わなかった。
メキシコの画家・ルフィーノ・タマヨの画集を手渡され、〈Water Melon〉シリーズに魅せられた3年生の私は、来年はどんな西瓜を描こうかと、300日先の夏休みの絵の構想を練ってみる。

しかし、小学校最後の夏休みは、西瓜を描かなかった。その年の2月に祖父が逝き、祖母の家の冷蔵庫に大きな西瓜が収まることは、二度となかったからだ。

クラスメイトと同じ、青を基調とした私のプールの絵は、廊下の壁の隅に画ビョウで留められた。それは、誰にも笑われない代わりに、誰の目にも留まらなかった。

成人して、ひとときニューヨークに住んでいた。
お金はなかったが、勉強をしたかった。家の一部屋を安く貸してくれる人を見つけ、倹しく暮らした。

家主は50代の夫婦だった。東欧からの移民で、見るからに爪に火を点すような生活をしていたから、雀の涙のような賃料収入でもありがたいようだった。
妻は英語を話したが、夫が喋っているところを─それが母語であれなんであれ─見た記憶がない。

ダイニングの壁には、むき出しの写真が何枚も画ビョウで留められ、日に褪せて角を丸め、表面にうっすらと白い埃を溜めていた。
アメリカに住むこの夫婦は、古い写真の中ではお似合いの幸福な恋人たちだった。その前は知的で意思の強いな学生でもあり、未来の自分に降りかかる苦難を知る由もない、小さな、あどけない子どもでもあった。

私たちは、キッチンを使う時間をずらして別々に食事をしたが、彼らと鉢合わせることも、ときにあった。
すべて揃っているのに、決定的に何かが欠けているエドワード・ホッパーの絵のようなダイニング・ルームで、彼らの視線は交わることのないよう、慎重に迂回する。
2人で悲しみを共有したあとの日々は、その悲しみが深ければ深いほど、ますます人を孤独にするのだろう。当時の私には皆目わからないことだったが、後日私もそれを、身をもって知ることになる。

そこはゲイ・バーの多い地区だった。太陽が沈むころに現れる男性カップルの濁流を、3階の窓からぼんやりと眺めた。抗AIDS薬が目覚ましい効果をもたらすようになっていたが、根拠のない非難と抑えきれない差別を滲ませた世間の目は、真夏であれ氷点下の冷たさだった。
中南米の言語が行き交うバスに乗り、邪魔だそこのチャイニーズ、と罵られて戸惑い、返す言葉もなく押し黙る。窓に映る私は確かにジャパニーズだが、チャイニーズだろうがコリアンだろうが、彼らにとってはただ等しく邪魔なだけだ。
路地裏で倒れているアフリカ系男性の脇腹を、白人の警官が黒い靴先でつついている。彼の目には、交通を妨げる倒木か、人間以外の小動物にでも見えたのだろうか。

糸の切れた風船に乗って日本を離れ、ニューヨークにたどり着いたものの、肝心の風船は萎みはじめ、明日にも墜落しそうだった。
萎ませたもの、それは長くぬるま湯に浸かり切って、ふやけた自分の恥じ入るしかない無知さ加減と、鍛える必要のなかった筋肉ゆえの、どうしようもない無力さだった。
航空チケットさえ取れば、日本人として保証された身分をパスポートに語らせて、どこにでも行ける。帰りたければ、パスポートを提示して、いつでも帰ることができる。私にとって当然だったそれを、人生を賭けても手に入れることのできない人たちが、この世界には犇めいている。
難民問題に興味を持ち、興味はやがて決意に、ほどなく焦燥に代わったが、しかし何をどうすればよいのか、皆目わからなかった。

夏の終わりを予感させるような透明な光が、静かに舗道を撫でて一日が終わる。ひとり、部屋の読書灯を便りに本を読んでいたら、家主の妻が扉をノックする。
─ 中国人の友だちが西瓜を持ってきたんだけど、あなたも食べる?

ハイチからの移民である女性の夫も交え、家主の妻と私の4人で、ぬるくて熟れすぎた西瓜を、奇妙に浮かれながら分けあって食べた。
西瓜を手土産に現れた女性は、天安門事件について憤りながら、無計画に西瓜をにかぶりつき、勢いよく種子を吐き出す。
穏やかそうなその夫は、ちょっと齧ったなり、歯形のついた西瓜を見つめ、木漏れ日のように微笑んでいる。
家主の妻は、種子をすべて掘り出したあと、昨日みた夢の話をするかのように滔々と、ユーゴ紛争の顛末を話す。彼女の夫の姿はない。
彼は?と訊ねると、妻は首を傾げる。首には、〈知らない〉という傾け方のほかに、〈どうか訊かないで〉の角度がある。

私は黙って、フォークで西瓜を突き刺し、口を大きく開けて、かぶりがぶりと食べていく。
その夜、腑に落ちたのは西瓜ばかりではなく、己の人生への問いかけに対する、シンプルな回答のようなものだったかもしれない。

連休を利用して遊びに行った実家で、4日間高熱が続いた3歳の娘が、最後に扉を叩いた小児科で処方された薬に反応した。夕方目覚めると、思わぬ笑顔を見せる。熱もずいぶん下がっている。
─ 何か食べたい?
─ すいか。

この4日間、娘はこの世ではないどこかに漂っているようだった。二度と帰ってこないのではないか、という、どろりとした不安を、震える手で頭の中心から引きずり出し、漆黒の闇に葬る。次第にそれは脳裡に刻印されたゴシック体の文字になり、目を閉じてもその言葉が、はっきりと見えるようになっていた。

娘の目が西瓜を探す。
すいか、すいか、すいかはいったいどこにある?

私は乱れた髪に、昨日の朝に着た服のまま車を走らせる。そして、遠くにあるデパートで見つけた西瓜を助手席に置き、大切に持ち帰る。

小さく切った西瓜を皿に並べ、ジューサーで砕いた西瓜をグラスに注ぐ。
小さな女王のようなは、お盆の上に並んだお皿とグラスを満足気に眺めると、娘は小さな手を伸ばしてグラスを取り、熱で乾いた唇に縁を押しあてる。
こくん、こくん、と喉が鳴る。

そして、
─おいしいねえ、
と、掠れた声で言う。

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