見出し画像

眼差しの小糠雨に傘はいらない


南向きの庭の、老いた藤棚の下に打ち捨てられた煉瓦ブロックのなかに、スケッチブックと色鉛筆を、七歳のわたしはしまうことにした。多少の雨では濡れないし、風もさらいはしないだろう。
何よりも、わたし以外誰も知らないのがよかった。スケッチブックをひらけば、白い紙の砂漠を越えていく蟻が、描くべき線を示唆し、吹き寄せる紅葉が、塗るべき色をわたしに教えた。

絵を描くときはひとり、と決めていた。友だちと約束のない午後は少し寂しかったけれど、欲望の天秤にかければ、ひとりで絵を描ける喜びの方が勝った。
日中は両親とも、仕事で家にいない。隠しごとに鋭い嗅覚を持つ兄は、ランドセルを背負ったまま遊びに出ている。一つ屋根の下に住む画家の叔父も、今日は絵画教室の講師のため不在だ。
色鉛筆を握り、いっぱしの芸術家気取りで、今日のモデルを検討する。無敵な烏骨鶏の無邪気な眠り。落ちて歪んだ二日目の柿。竪琴のような弧を描く犬の美しい背中。

描き上げて、スケッチブックごと勉強机の引き出しに入れておくと、わたしが学校で過ごしている間に、叔父が見てくれる約束だった。

講評は、エアメール用の薄い便箋にしたためられ、描いた絵に添えられている。それを読むのが楽しみだった。誉められるかな、どうかな、と思いながら色鉛筆を動かす指が、明日注がれる叔父の眼差しを想い、温かくなっていく。

〈書庫は家にあり、書斎は外にある〉と常々言っていた父の思わく通り、絵を描かない日は、公園で友だちと遊び、兄の仲間に付いて雑木林を探検をした。
夕刊を配達するバイクが唸り、立ちながら眠っていた電灯が目覚めるころ、泥で汚れた指先をスカートで拭き取りながら、いっときもじっとしていられない夕方を見送る。

背中に温かさを感じて振り返ると、母が窓辺に立っている。
ほっそりとしたシルエットの周りは淡い金の光で満たされ、その後ろでは夕餉の支度が進んでいるに違いなかった。そして、わたしに向けられたその眼差しは、そろそろ家に入って頂戴、という母の胸のうちを控えめに語るのだった。

週末の朝の七時に、祖父の軽トラックが滑るように到着する。
助手席に積み上げられた釣り道具の隙間に座り、人気のない路地を抜け、国道へと向かう道すがら、清潔な朝の景色を眺めながら、早起きをして母が握ってくれたお結びをゆっくりと食べた。

祖父は、赤信号で車を停めるたびに、柔らかい眼差しをわたしに向け、たいしたことのない食欲を手はじめに、あらゆることを褒め称え出す。
惚れ惚れするような良い食べっぷりだなあ。お母さんのお握りはびっくりするくらい美味しいだろう。お兄ちゃんは寝坊か?昨日も遅くまで将棋してたんだろ?大人顔負けの腕だからなあ。

とにもかくにも祖父は誉める人だった。
母のお味噌汁は世界一美味しく、兄の頭脳は世界一明晰で、わたしの黒髪は世界一美しいと讃える祖父の言葉を、幼いわたしは素直に信じていた。大人になった今でも、母のお味噌汁は抜群に美味しく、兄はすこぶる聡明だと思う。ただ、わたしの黒髪が世界一ではないことは早々に気づいたものの、一度たりとも別の色に染めようと思わなかったのは、あのころの祖父の言葉と柔らかな眼差しが、骨の髄まで浸透しているからだろう。

釣りを終えて帰る車の中で、くたびれたわたしは必ず舟を漕いだ。
前後左右に揺れる孫の横で、ピンと伸びた背筋でハンドルをさばきながら、今日もよく頑張ったなあ、と最後の最後まで祖父は褒め続ける。ときどきうっすらと目覚め、再びまどろみながらわたしは、頭のてっぺんから爪先まで温かい、とぼんやり思った。

あのころのわたしに向けられていた眼差しは、陽だまり土のように温かかった。注がれる感触を身体全体で記憶しているため、眼を閉じても瞼の裏で思い出すことができる。それは、春の午後に降りしきる小糠雨のようにやわらかく、しっとりと身体を包みこむ。

学校に向かうわたしを見送り,帰るわたしを迎える近所の人々の眼差し。わたしだけ母に叱られているときに寄越される、兄の詫びるような眼差し。わたしのあとをどこまでも付いてくる、犬の蕩けるような眼差し。わたしは振り返る。わたしは立ち止まる。わたしは微笑み返す。わたしは眼差しの永遠を疑わない。

「まなざし」は「眼差し」ではなく、「眼指し」なのかもしれない、と思うようになったのはいつごろだろう。
冷えきった眼が、乱暴に指し示す先。

─言わなくてもわかるでしょう?

口角が、嘲りと侮蔑のあいだで歪んでいる。指し示されるものは、気に食わない誰かの背中。

─あの子、目障りよね。

目と目は慎重にすれ違っていくのに、眼で指された対象は、ピンで貼り付けられた標本の蝶のように、あるいは蛇に睨まれた鼠のように、身動ぎすらできない。

いつしか、「まなざし」は「眼刺し」でもあるのだろうか、と考えはじめる。

─あなたがすることはすべて、神様が見ていらっしゃいます。

─誰もいないと思っても、必ず誰かが見ているものですよ。

教師の眼の届かないところで子どもたちが勝手なことをしないようにと、透明で冷徹な、見えない眼の存在を、彼らは暗に仄めかす。わたしたちは、見知らぬ人の咎めるような眼を思い浮かべる。それは、正しくないわたしたちを刺し貫く眼。わたしたちを監視し、時に縛り上げ、厳に修正を求める眼。

そして、「まなざし」は徐々に「視線」へと形を変えていく。少女のわたしに降り注いだあの温かなまなざしの粒子ではなく、砕けることを拒む激しい感情の塊を、そのまま投げつけるような眼の動き。
強靭で、直截的で、押し返すことのできない何か。憧れ、賞賛、蔑み、憎しみ。値踏み、排除、哄笑、唖然。

しだいに、わたしは〈まなざし〉に怯えるようになる。未知なる誰かが振りかざす、わたしを切り刻むナイフのごとき鋭利な視線。どこから押し寄せてくるか皆目分からない、自由であることを許さないタールのような視線に。

この人のまなざしは、あのころ浴びた眼差しに近い、と感じたわたしは、初めて会ったその人を懐かしく思った。
見たことのない景色を眺めるようにわたしを見る─ようやく見つけた花を愛でるように静かに。 (だからわたしは、初めて会う懐かしいあなたと、ゆっくり話をすることができる。)

最後に彼を見たとき、閉じられた両目はわずかに開いていた。
眼差しを奪われた瞳は、視覚を司る臓器に過ぎない。狼狽えながらもその眼を完全に閉じたいという衝動に駆られて、右手を伸ばし、人差し指と中指でその蒼白い瞼に触れる。温かな眼差しの源だったその二つの目は、ドライアイスで冷やされた棺の中で頑なになり、戸惑うわたしの指先を、したたかに押し返した。

受付を終えた足で採血室に向かうと、今日も待合室の人が溢れていた。

月に一度の検査は血液検査に始まり、心電図で終わる。免疫の暴走で、いかなる臓器に炎症が起きてもおかしくない。見た目は健康そのものの娘の、身体の内側に広がる闇を、懐中電灯を当てるようにして隈無く探る。万が一火種が見つかれば、直ちに大規模な消火活動に入らなくてはならない。

ようやく娘の番になり、細い身体ごと採血室に吸い込まれていく。わたしは彼女の後ろ姿が見える場所に移動し、その一部始終を見つめる。
袖をたくしあげると、白い腕が現れる。ベルトで締め上げた腕に血管が浮かび、針が皮膚に沈んでいく。娘は決して目を逸らさない。針が血液を吸い上げ、皮膚から離れるまでずっと。

わたしの眼が、七歳の少女を見ていた母の眼に近づいていく。深い思いを込めて眼差しを注ぐ人の透き通った眼に。
彼女は気づくだろうか(わたしは気づいていただろうか)。彼女に届くだろうか(わたしは受けとっていただろうか)。

長い三分が経ち、針を刺した箇所を押さえながらも晴れ晴れとした顔で、娘が採血室から還ってくる。

─お母さん、ずっと見てたでしょ。

わたしは頷く。

─なんかさ、背中が温かかったんだよね。

わたしと娘の目が合う。

免疫抑制剤の副作用の検査を受ける過程で、白内障の進行が認められたその瞳に、幾多の思いを込めて彼女へ眼差しを注ぎ続ける、小さなわたしが映っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?