見出し画像

藤田ゆきの私論

(本稿は、ガールズ・ラジオ・デイズ非公式同人誌『___・ラジオ・デイズ』(2020)への寄稿作品です。本文中の記述は、すべて2020年3月時点のものです。)
(都合上、文末脚注は別記事にしています。)

一.はじめに

合同誌の途中ですが、さてここで、ゆきのク~イズ! 
藤田ゆきのって、いったい、何者でしょうか? チッチッチッチッ ……

 藤田ゆきの氏(以下敬称略)は、中日本高速道路株式会社(以下、NEXCO中日本)の社員です(図1)。2018年より始まったメディアミックスコンテンツ「ガールズラジオデイズ(以下、ガルラジ)」のラジオ作品内で、主に高速道路サービスの広報を担当し、徐々に独自の人気を確立していきました。2019年から開始したセカンドシーズンではラジオ中の登場こそなくなったものの、Twitter上での宣伝「ガルラジinfo」への出演、ガルラジ関連イベントへのアナウンス協力など、コンテンツを形成する不可欠な一要素として存在感を保っています。

画像3

図1 藤田ゆきの、人物ビジュアル [1]

 放送開始当初、視聴者は藤田ゆきのの登場に対し概ね困惑を表明していたことが知られています。その大きな原因のひとつである彼女の声・演技は、声優らが担当するガルラジストーリーのパートと実際大きく隔たっています。加えて彼女の提供する実用的な高速道路情報がラジオ本筋の内容と乖離している点も、視聴者に奇異な感覚を与えます。そのようにフィクションから離れた存在でありつつも、われわれ視聴者が彼女について把握しうるのは、声と僅かな事前設定、および断片的な遍歴のみであり(「ガルラジinfo」では映像もいったん付与されたものの、のちに彼女自身と映像内容とは全く無関係である旨が明かされています[2])、日常的用法でのいわゆるリアルさとも離れた人物です。
 ガルラジに通底する「リアルでありリアルでない、物語であり物語でない[3]」という姿勢に照らすならば、藤田ゆきのは物語やガルラジにも、またリアルにも収まらない存在としてコンテンツに現れている、と表現できるでしょう。

 本稿では、このガルラジや現実などさまざまな相の隔たりに注目し、藤田ゆきのという人物に関して、第一に「藤田ゆきのはどのような立ち位置にあるのか」、第二に「どのようにガルラジへ導入され、どのように視聴者に効果したのか」の観点で検討したうえで、「私自身が、藤田ゆきのという存在をどのように見るのか」を示します。

二.藤田ゆきのの位置

 ガルラジの各チームが暮らす世界は不思議なものです。愛知県岡崎市、石川県白山市などの実在の地名上で、おおむねあり得そうな、一見現実的な話題が展開します。ガルラジの最大の特徴として、その不思議な、リアルにしては物語的な・物語にしてはリアルな雰囲気が挙げられ、既に多くの優れた議論がなされています。ここでは「発信者と受信者が同じ時間に生きているという感覚と相互にやり取りできる窓口がありながらも、多少の世界的なズレがある」ラジオ自体の性質に着目する鶏七味の論[4]や、「貫世界的メディア」概念を導入し、「ラジオ、つぶやきによって惹き起こされる心的状態をキャラクタの虚構的心的状態と重ね合わせ」ることの鑑賞体験への寄与を解明するナンバユウキの論[5]を紹介するにとどめますが、以上のようにリアリティあふれる演出のなか、ややもすれば忘れられそうになる架空性は、しかしたびたび強調されます。
 たとえばチーム岡崎の1stシーズン第5回放送(以下、岡崎1‐5。今後ラジオ放送については同様に略記)の「岡崎一番本気味噌ドレッシング」や徳光1‐4の「白山おふろランド」など、少なくともわれわれの世界には存在しない事物へのごく自然な言及によって、われわれはガルラジ世界の架空性・物語性をそのたび思い出します。複合する様々な要素によって、ガルラジはたしかに物語‐リアルの中間に広がっています

 脚本家らの「基本的に書き手は表に出るべきではない」という態度[6]や、「裏方」「いわば黒子」という表現[7]は、ガルラジに対する制作者側の立ち位置を象徴しています。すなわちガルラジにおいては、脚本家含む制作陣は「表」=物語の背後へ退き、「裏方」=リアルとしての作業に徹しますが、この態度については(企業アカウントでしばしば見られるような)スタッフA、Bなどのように発言者をクレジットする方法を採っていないことも裏付けとなるでしょう。裏方=リアル制作者は、ガルラジではとりわけ注意深く黒子化・匿名化されます[8]。

 藤田ゆきのは物語内に、あるいはリアル内にも、自足するような位置づけを拒む存在です。声をラジオにのせ、登場人物の固有グラフィックをまとい、他の登場人物と戯れる藤田ゆきのは、黒子や裏方と呼ぶにはあまりにも「表」的です。それと同時に、彼女が饒舌に明かす経歴や体験談と、また素朴かつ非演技的な語り口を伴って、藤田ゆきのという存在のリアルさは際立ちます。知らないおじさんとぷらっと飲みに行く(御在所1‐4)、ドン・キホーテを学生時代から愛用する(富士川1‐6)、女子高のころから清里高原に縁がある(双葉1‐2)、新大久保で冷麺を食べるがイケメンはさして好きではない(徳光1‐3)などの情報が次々開示されますが、それら一連の断片的なエピソードが脈絡だった物語を志向することはありません。

 定延利之は、「役割語」の使用によって暗に示される人物像を発話キャラクタ」と定義しています[9]。ここでいう「役割語」とは、金水敏によって「ある特定の言葉遣いを聞くと特定の人物像を思い浮かべることができるとき、あるいはある特定の人物像を提示されると、その人物がいかにも使用しそうな言葉遣いを思い浮かべることができるとき、その言葉遣い」と定義されたものです[10]。
 藤田ゆきのの役割語・口調は、ある特定の発話キャラクタを生成するためにはあまりにも場当たり的に変動します。この変動はリアルのわれわれは日常的に不可避に経験しますが、職業声優であれば各種の発声技法による役割語コントロールを通して意識的に抑え込み、発話キャラクタおよび登場人物を構成するはずのところのものです(ただ、「『キャラクターっぽくない話し方』が、しかし、あくまでも『キャラクターによって』話されているのだ、ということが維持されている」というような、いわば役割語のガルラジ固有の扱いに関する指摘[11]は、コンテンツの特異性として無視できないことは補足しておきます)。
 エピソードについての検討とあわせれば、藤田ゆきのの示すエピソード群も口調も、表立って物語を編むことを引き受けていない、とも言い換えられるでしょう。

 リアル‐物語の比較軸に加え、ガルラジに通底するものとして、地方性‐東京性という軸が挙げられます。ここでも、藤田ゆきのは特殊な場所に立っています。
 先述のエピソード群は転勤が多い彼女の生活を示唆していますが、これは登場人物たちが各サービスエリアを拠点として「地方の地域活性[3]」を目指すストーリーとは一見隔たっています。同時に、手取川海瑠が、あたかも登場人物たちの地方性を一身に背負うかのように強烈な感情を向ける、「都会」的存在でもありません。藤田ゆきのはガルラジのコーナー内にありながら、東京のコリアタウンから四日市の飲み屋街まで、ガルラジの舞台以上に広がりある行動圏を動きます。
 また各チームのラジオが、ストーリー的にも地理的にもほとんど近接しないにも関わらず、1stシーズンでは例外的に藤田ゆきののコーナーだけは共通して設けているのも象徴的です。
 地理的に離れた各チームのラジオを、NEXCOコーナーの枠によって、および地方を渡る転勤のエピソードによって、都会性と地方性のいずれにも回収されず横断するというのが、藤田ゆきのの地理的立地点だと言えます。

三.藤田ゆきのの導入効果

 登場人物たちの日常生活や地域をテーマに展開されるガルラジは、「地域ごとに集められた女の子たちに、ミニFMのラジオ放送を行ってもらうという企画[12]」とあるように、明確にミニFM、とりわけコミュニティFMの雰囲気を模しています。コミュニティFMの要件として、浅岡隆裕は「自生的なメディア」であること、「〈地域アイデンティティの構築〉や〈地域イメージを対内外的に発信する〉」狙いを持つことなどを挙げます[13]。実際そのような性質に対応し、コミュニティFMでは番組内容が地域情報をメインとするのに加え、地域に関わり深い企業等からなるスポンサーも地域情報・商品を広告することがほとんどです。ガルラジ内で藤田ゆきのがNEXCO中日本を広告することは、その点コミュニティFMの雰囲気づくりに貢献しています(思えば彼女の非職業声優的な口調も、いかにもコミュニティFM的です)。
 かつこのコーナーが全チームの番組に共通して挿入されることは、先ほど述べたように地理的にも、かつストーリーコンセプト的にもほとんど離れた各チームに統一性を持たせるような効果をもたらしている、との指摘[14]もまた重要です。ほんらいストーリー上は各チームの上部にあるガルラジ運営こそが果たすべき統一役を、運営ら裏方の匿名化という事情によって、特殊に非匿名的な藤田ゆきのが担っている、と解釈できるかもしれません。

 藤田ゆきのは、NEXCO中日本の肩書をもちつつガルラジの、物語の層に乗れる唯一の人物です。この立ち位置は、裏方・黒子たるスポンサーがなお物語に関与するために不可欠です。ここについてみていきましょう。
 2ndシーズン以降では、ガルラジ公式Twitterアカウントの投稿の一部が藤田ゆきのの発言として明記されています。ガルラジ公式Twitterで目を惹くのが、絵文字や顔文字の多用を伴う(しばしば「オヤジくさい」とも評されるような)固有の口調ですが、2ndシーズン以降で藤田ゆきのが発言者として結ばれることにより、翻って1stシーズンからすでに彼女がTwitter運用を担っていたように印象付ける効果を持ちます。

 ここで、ガルラジ内のあちこちに登場するTwitterというモチーフについて検討します。ガルラジにおいてTwitterは、われわれも利用するいちSNSとしての意味に加え、ガルラジアプリ内で登場人物たちが発信する「つぶやき」にも紐づいています。この「つぶやき」は、現実世界の時間と概ねリンクするような演出を通し、「現実を模倣・擬装・エミュレートすることでリアリティを得」、ラジオ外から登場人物たちのディテールを深化させていました[15]。
 このSNSのモデルに他でもないTwitterが選ばれたのは、ほぼ相手との会話の状況を要請するLINEは言うに及ばず、FacebookやInstagramなどが前提するような知人関係すら、Twitterは求めないことが大きな原因だと思われます。あくまでも懸隔しているガルラジ世界とリアル世界を、しかし同時的に接触させる演出を担いうるツールとして、Twitter=「つぶやき」はガルラジと不可分に結びついているようです

 さてこのようなTwitterの利用にあたって、では誰がリアルアカウントの運用者となるか、という不可避の問題が生まれますが、この解法として藤田ゆきのの採用がおこなわれたのは、先に考えた彼女の立ち位置を考えれば必然といえます。このコンテンツがリアル内に立地するスタッフ=裏方たちの徹底した匿名化を選んだ以上、Twitterを齟齬なく運用できる存在は、ガルラジにもリアルにも包含されないよう設定された藤田ゆきのをおいて他にありません[16]。
 藤田ゆきのという存在は、スポンサーたるNEXCO中日本が物語になんらかの関わりを持ち続けることを可能にするための架け橋であり、物語に対して彼ら裏方を黒子=匿名にとどめおくための防波堤です(図2)。

画像2

図2 藤田ゆきのの配置モデル

 
 最後に、藤田ゆきのがリアル‐物語の中間に立つことと、彼女の伸び伸びとした道化性、さらにいえばトリックスター性・異人性との関連は指摘しなければならないでしょう。河合隼雄によれば、道化は「ひとつの王国とその周辺部、あるいは隣国とをつなぐ」「『二つの世界』に通じる存在」としてきわめて重要です[17]。道化はおどけつつ世界を往復するなかで、ほとんど非意図的に、そのままでは単層化しがちな双方の世界に多様化の機会を与えます。藤田ゆきのは「機会を与える」にはとどまらず、より積極的に双方の世界に介入をするトリックスターとしての機能も体現しています。リアルの枠内にも、かつガルラジの枠内にも収まらず、縦横にはたらく藤田ゆきのにこれらの役割をみるとき、確かに彼女の軽やかな立ち回りの影響は明らかです。特に2ndシーズン以降、活動の中心をTwitterへ移した藤田ゆきのは、まさにトリックスターと呼ばれるにふさわしく、さらに縦横無尽の活躍を見せます。とりわけ実写の動画では、地面やパンケーキにメッセージを手ずから書いたかと思えば、次の場面ではキャラクターのビジュアルをまとって登場人物らや風景写真と同じ画面に乗る、というように、その多面性・両義性をいかんなく発揮するさまに、われわれは呆気にとられるほかありません(図3)。

画像3

図3 藤田ゆきののトリックスター性


 藤田ゆきのの機能を考えるにあたり、古代中国の遊説知識人らと帝国の関係に着目した、大室幹雄の異人議論を参照します。大室によれば、宮廷‐辺境の二世界の接点において「城門をくぐって都市内部に歩み入った瞬間に旅人は異人に変身」します。異人は一種のトリックスターとして、都市内部に「非日常的な反秩序の諸力」をもたらし、内部をいやおうなく多様化させる存在ですが、その際用いられるのが「〈滑稽〉」すなわち「不可解な行為と奇矯な言葉によって表現された心理的な訴えかけ」「同一律も矛盾律も超越した精神」であると分析されます[18]。このような異人観は、彼女がラジオ内やTwitter動画で大いに示す可笑しみ、〈滑稽〉が、ガルラジと他コンテンツの差別化に大きく効果している実感を裏付けているでしょう。

 藤田ゆきのを語るにあたって付いて回るのが、「藤田ゆきのは実在するか?」という問いですが、ここまでの議論をたどるならば、もはや彼女の実在性を問題にする理由はありません。実際に「藤田ゆきの」という社員がNEXCO中日本に在籍しているのか、ツイートを作成したり、写真を撮ったり、またみずからの声をラジオの電波にのせているのか、といった疑問はほとんどナンセンスに思われます。藤田ゆきのが、NEXCO中日本社員の肩書とともにガルラジに登場し、Twitter運用者であると思わせるような演出が必要とされ・実行され、かつわれわれがそのような演出たる藤田ゆきのを演出意図通りに受け入れてきた、という事実こそが重要だからです。

 ここまでで、物語‐ガルラジ‐リアルという構図にあって、藤田ゆきのがガルラジ‐リアルの中間に位置し、かつ様々な演出効果を担っていることを示しました。彼女の介在を含めて、物語からリアルまでのグラデーションが形成されるのがガルラジというコンテンツの特色であり、藤田ゆきのの成果であると考えます。彼女が形成したグラデーションは、ガルラジの世界へリアル感を、リアルの世界へガルラジ感を導入することに実際に成功しています。藤田ゆきのが果たした効果は、陰に陽に、じつに無視できないボリュームを持つように思われます。


四.藤田ゆきの私論

藤田ゆきのとは、私にとって、何者でしょう?

 藤田ゆきのは、NEXCO中日本の社員であり、ラジオのCM枠特有のド素人であり、突飛なツイートのクリエイターであり、そして私が時折夢想するコンテンツ‐リアルの往来を、いともやすやすとやってのける軽業師です。その曲芸めいた往来が、私には眩しく映ります。
 しかしなぜ、コンテンツとリアルの往来に惹かれるのでしょう。

 藤田ゆきのの存在は、先に示したように(ガルラジ経由で)リアルとフィクションを架橋し、かつフィクションに入り込む行為を実演しています。このようなフィクションへの介入は、他にTwitterリツイートキャンペーンなどの手管も用意はされたものの、このコンテンツ独自のものです。

 もともと、ファンコミュニティ用のハッシュタグを用いてみたりとか、Vtuberに実アカウントで応援コメントを投げるようなこともあまり得意としない心根だった私は、それほどコンテンツへの介入じたいに熱烈に憧れている人間ではないと思っています。それでもなおガルラジの示すこの特異な双方向性に惹き付けられたのは、それが私のもうひとつの心根、いわば自己を表出することへの欲求を、適切に解放してくれるように感じたからかもしれません。この種の自己表出を、私は個人的に「雑語り」と呼ぶことがあります。雑語りの中では、コンテンツに触れた感動に駆動された私は、実生活の事物や実感をその創作物に接続しようと奮闘しますが、それはほとんどぎこちなく、コンテンツの表面にゴテゴテとくっつくだけの不格好な飾りつけ以上のものは生みません。コンテンツから受けた感動と、結果物の惨めさとのはざまで、私の欲求はしばしば宙吊られ、戸惑います。

 ガルラジは雑語りを包み込んでくれる。これが私にとって最大の驚きで、最大の効用なのでした。藤田ゆきのが話す断片的エピソードは、「ラジオらしさ」のいち演出として、違和なくガルラジ内に溶け込んでしまいます。ガルラジに感化された視聴者が、ごく個人的な物語を、ぎりぎりのリアルさをもって開示するにあたってさえ、彼の語りはガルラジと対立せず、むしろガルラジのストーリーとスピンオフ的に併存している印象さえ与えます[19]。ここにおいて、語りとストーリーとの垣根は、非常に希薄です。
 語りの、このような包みこみは、実のところガルラジがそもそもラジオコンテンツを背景にすることにも拠っているようです。加藤晴明によれば、「ラジオがもたらす、パーソナリティの語りとリスナーとの関係には、マスコミ未満インターネット以上の位置をもつ領域が存在し」「そこにはパーソナルでありながらパブリックでもある、パブリックでありながらパーソナルでもあるという両義的であるような語りの技法・語りの作法が存在し」ます[20] 。ガルラジにかぎらずラジオでは、リスナーの「おたより」は電波を介してラジオ世界のパーソナリティに送り込まれ、電波を介してフィードバックされますが、このように語りを組み込むラジオの経路が先にあったうえで、それが藤田ゆきのの立ち位置・役目・口調など全体に結晶したのだろう、と思えます。

 映像なきガルラジの鑑賞に際して現実の光景を渡り歩く「質感旅行」も、その根本的な捻れに個人的経験が絡まるような、かなりリアルな語りの一つといえますが、ガルラジはこれも語り同様に包みこんでしまいます。
 本来このような語り全部の包み込みが可能だったのは、FM/AMラジオがリスナーもパーソナリティも生身・リアルであることの了解を土台としたためです。その種の了解を欠くガルラジでは、ガルラジ世界のパーソナリティとリアル世界のリスナーとの無視できない段差を、原案・脚本・声優演技などのさまざまな演出が均し、加えて演出装置としての藤田ゆきのがさらにグラデーションをつけることによって、私の語りをも包みうるコンテンツへと成されているのです。

 ガルラジを聴くときに私が得る、映像を伴う(たとえばニコニコ生放送やYoutubeライブのような)放送コンテンツとも異なる鑑賞体験も、ラジオの特性から理解することができます。映像放送コンテンツに比べ、ラジオは伝達する情報量の点で不完全なメディアながら独特のリアルさをもつことには言及しました。そのようなラジオ媒体を介し、ラジオ媒体の特性を生かし切っているからこそ、ガルラジリスナーには「そのまま映像として流されるのであればわれわれがそのフィクションに入ったことにはならない」が「音だけならフィクションに入れる」という感慨が生起するのでしょう[21]。
 われわれは、おたよりなら、語りなら、音声なら、フィクションに入りうる、というのが私にとって新鮮な発見でした。この介入の可能性を、まずガルラジとリアルをなめらかにつなぐ橋架けによって示し、かつ両者を往来する方法によって示す存在として、藤田ゆきのは重要であるように映ります。 
 私はどうやら、藤田ゆきのの架橋や往来を含むフィクションへの介入を、それにともなうフィクションへの没入を、さらにこのようなフィクションとの密なかかわりを包みこむような、表現物全体への愛着ある理解を、根本的には求めているようです。そのような系列の中にあって、彼女の特異な立地や往来の方法に惹かれたようだ、というのが、本稿を通しての私の見立てです。

 先に引いた加藤は、従来のラジオのような「パブリックなメディア空間のなかでのリスナーの私的なメッセージ投企と、それへのパーソナリティの側の無限承認ともいえる、寄り添い応援するようなメッセージのやりとりは、いまや、ネットコミュニケーション全域で可能となっている」と指摘します。そのうえでなお、ラジオの持つ「語りの技法・語りの作法には、インターネットという私的表出の暴走と自己の肥大が際限なく展開されるメディア空間への、ある種のオルタナティブなメディア表現のモデルを呈示する可能性がある」と希望をつなぎます。私がネットコミュニケーションからこのラジオコンテンツに出会ったことはその点顛倒していますが、ガルラジは私にとって確かにオルタナティブであったのです。

 自身のリアルを・デイズを、しっかりと語る行為を通して、逆説的にフィクションに近接する道があるのだということ。ラジオと藤田ゆきのが示すこの細道は、私にとって間違いなく希望です。
 藤田ゆきのが、その細道の案内人として私の目に立ち現れている、という実感をもって、「藤田ゆきのは何者か」という問いへの私的回答としたいと思います。


参考文献・脚注


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?