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自分のポリシー、という難しさ

僕のポリシー、という話を、まさか最初のノートの投稿にするとは思わなかった。でも、書かずにはいられなくなった。ブログじゃなくて、こっちに。

僕のポリシー、はすごくわかりやすい。これから先の人生を考えるときに、「それはやりたいことなのか?やりたいことをやるための苦労と引き換えてでもやりたいことか?」ということを常に問うている。

で、そう考えたときに、とりあえず「興味があるからやってみたい」を書き倒した記事が下記の記事なのだが、それとは違う話をここでしたい。ポリシーとしての「やりたいことをやる」ことについてである。

参考記事:https://shima-sun.com/life-is-okuri-bunt/iwanttodo

「そもそも、ポリシーってなんだ」ということでもあるんだけど、要は僕が人生で大事にしていることです。

もちろん、ただ「やりたいことをやる」ことというのは、楽を選ぶことではないです。正直楽じゃないことも多い。(というのを大学時代の研究や学生委員会活動に学べたのは大きな収穫だったと思う)

で、その「やりたいことをやっているか」を検証する、心の声を聴く機会、というのがたまにあって、それはだいたい選択を迫られたときなんだよね。

余裕のある時に限ってそういう声を聴く気がない。多分、ぼーっと生きてんだろうな。

だから、決断が切迫した状況になると自分と向き合うことになる、焦る。

余裕があるときにやっとけばよかったのに。

まあここで話したいのはそれじゃない。

やりたいこととやらなきゃいけないこと

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僕自身は、まだまだガキの自覚がある。

だから、やりたいことをやる、というのが人生の目的になっていて、少しおかしい。ふつうそうであってはいけないのである。しゃかいじんであるいじょう。

「やりたいことをやる」というポリシーは、難しい。

だって「やりたいこと」というのはやれるかどうかはまた別だから。ただ、ポリシーに決めた以上、「やらなきゃいけないこと」もやれるようになってきた。

さすがに社会人になるまでに、「やりたいこと」とそれに伴う「やらなきゃいけないこと」をワンセットで進められるようになった。「want do」と「have to」だ。

ということを考えられるようになったのはそれこそブルーハーツだった。

僕の哲学の半分は間違いなく彼らにもらっている。甲本ヒロトと真島昌利。

甲本ヒロトさんが言っていたこんな言葉がある。

何かをやるためには、ついでにやらなければいけないことっていうのがくっついてくるんだよな、世の中。大人になると。子どものときはさ、やりたいことにくっついてくるやらなければいけないことが克服できないんだよ。だからやりたいことも我慢しなきゃいけない。それは、しょうがないじゃん、子どもなんだもん。だけど、大人になってくると何が違うかっていうと、やりたいことにくっついてくるやらなければいけないことを克服できるパワーが、大人になったら備わってきてさ、それを全部解決していくんだな。そして、やりたいことをやるっていうところに到達できるんだ。だから、子どもの頃から変わってないんだよ、やりたいことっていうのは、多分。それをできるようになるのが大人だからさ。だから、例えばさ、十代の頃にできなかったからっていって、諦めなくていいと思う。二十歳になって、三十歳になった、四十歳になったときに、ああ、あのときできなかったことが今ならできるっていう大人になっているかもしれないじゃないか。だから、もう一回でも、何回でも、チャレンジできると思うぜ。

この言葉を見たときは、「ああ、自分のポリシー、おかしくないな」と思えた。多分、「やりたいことをやる」こと、その「やりたいこと」がもっと明確になればいいんだろうな、とも思った。

そして、「やらなきゃいけないこと」をやる能力はまだまだ付けられる。というかつけよう。

だから、「やりたいことをやる」というポリシーは曲げない。

それが、僕の挑戦ポイントであり、それを選び続けることが僕自身のひとつの解であり、そしてその困難と向き合うことが楽しいといえるまではまだ到達していないから。

さあ、「やりたいことをやってみよう」。

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