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【コミュ力をバグらせる】っていう話

僕は、いわゆる「コミュ障に見えにくいコミュ障」である。確実に怒られる書き出しだ(笑)

ただ、いわゆる「本当に人としゃべれない」とは違う。もっと言えば「人としゃべること自体は嫌いじゃない」。

ここ最近言われているのかよく知らないんだけど「喋れるコミュ障」というのがあるらしい。普通に話せるし、空気も読めるんだけど、終わったあとに疲れがどっと出る。または1対1には強いが、4対1では存在感を消す。

そんなボクもそちらの人間である。

ただ、仕事の時とか、人が集まる場所に行く時は文字通り「コミュ力をバグらせて」振る舞う。結果、終了後死ぬ。

日々バグらせてるので、正直かなりきつくなってきた。大学時代はそんなことたまにしかなかったけど、というかそんな事しなくても過ごせたんだけど、社会人になるとそうもいかない。

バグは直すべきか

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そんな「バグで生存しようとしてる」状態が良いはずがない。てか悪い。なにせ、ストレッチするための120%の力を出してるんじゃなくて、今を維持するために130%くらい力出さないといけないんだから。

これに上司が気がついた。私は今はコンサルの仕事をしているが、その付属業務のツール作成とか運用とかまたはセミナーの運営とかの方が向いている、「裏方回り」の方が良いことがキャッチされた。

バグは本来は「直すべき」だが、バグらせて生き残ろうとしている状態で、そのバグは直せなかった。というか「直せば死ぬ」状態だった。

であれば「日常的にバグらせなくても大丈夫にしていく」方が最適と考えていただけた。感謝しかないですね。

そもそも、社会で生きてる中で「バグらせる」ことが日常化している場合って結構ありそう。
こんなに「新しい働き方」とか「生き方改革」とかいう言葉が溢れているのに。

「多様性」は「多彩さ」であれ

グローバル手つなぎ

ここで思うのは、「多様性」という言葉は、あくまで「属性の違うものを入れろ」という話で終わってないか?ということである。

「多様性」を辞書で引くとこうある。

いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと。
goo辞書より

種類さえいろいろにすればOKで止まっているのが現状ではないか?そのなかでも「いろいろな傾向がある」ことで初めて「多様性」という言葉を使うべきでは?と。

「男性だけど家庭を守る」の「だけど」さえ消えるべきだと思う。
「フロント職採用したあとにバック職に入る」のもおかしいとは思われるべきじゃない。
「新しいことに挑戦する」のも、すべからく何もかもが新しい必要はない。

「お前は男に生まれたのだから、強くありなさい」という言葉を、あとから疑問に持ったこともある。

結局、「多様性」という言葉、もしくは「多様性社会の実現」「新しい働き方」「生き方改革」というのは、社会側及び個々人側の包容力や認め合う力の問題でもあるのかもしれない。

だから、「バグらせないと生きることができない」人がたくさんいるかもしれないこの「イマ」を、変えたいし、そのロールモデルになろうと思うんだ。

「新しい生き方」を、「誰も歩いたことがない人生」を。

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