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ネタバレ「PERFECT DAYS」備忘録

映画『PERFECT DAYS』本予告_ヴィム・ヴェンダース監督作品×役所広司主演

年を重ねると経験や知見が増えます。どこかを訪れたり何かを見たりしたとき、その背景をより深く理解する喜びを得た気がします。でも「PERFECT DAYS」については自分側で受け取る情報がもう多くて多くて、ある意味ノイズだらけの鑑賞体験でした。これがエブエブ(Everyrhing, Everywhere, All at Once)のように怒涛のスピードで展開してゆく映画ならば、何かが頭をかすめてもひとまず脇に置いておける。が、セリフが少なく穏やかな時間が流れる「PERFECT DAYS」ではついいろんなことを考えてしまう。監督が伝えたいことに私は集中できていたとは言えないなあ。そんな状態でなんなんですが、自分なりにキャッチしたこの映画のテーマは「老い、死」と「若さ、生命力」の対比かなあと。

なぜテーマが「老い、死」と「若さ、生命力」の対比と思ったかについては後述。私の集中力を妨げた(こちらが勝手に受け取ってしまっただけだが)様々な情報、ノイズについてメモしつつ感想を書き進めたい。


作品の背景

そもそも映画を見る前から、えっヴィム・ヴェンダース監督が東京に撮影に来てたの?あの話題になったお洒落トイレについてなの?ていうかこれ日本語セリフの劇なの?など余計な疑問が心に湧いていました。ですが映画はなるべく前情報に触れず見たいので「とりあえず見に行こう、ヴェンダースだし」と特に調べなかった。あとサントラが良いとは聞いていた。

上記の疑問については公式パンフレットを読み解消。2022年の秋に16日間で撮影したみたいですね。そしてTokyo Toilet Projectという団体?チーム?がPR用短編の監督をヴェンダースに依頼したのが制作のきっかけだという。ええっコミッションワークだったの。びっくり。監督の自発的なアイディアではなかったのか…と一瞬思いはしたもののコミッションワークでも優れた作品ができるのは是枝裕和監督「奇跡」で証明済み。余談ですがそういえば2023年のカンヌでは是枝・ヴェンダース両監督が壇上にあがったんでしたね。

著名建築家らがデザインしたあのお洒落公衆トイレを運営しているのは渋谷区で、それがTokyo Toilet Projectなのだそう。てっきりオリンピック絡みで東京都が主体なのかと思ってましたが、渋谷区なのね。それであんなに渋谷区内が映っているのか。そして主人公の平山はTokyo Toilet Projectの清掃員ということになっている。なおTokyo Toilet Projectの代表がユニクロ社の幹部で、創業ファミリーの人だった。これにも驚き。衣装にユニクロがクレジットされていたのはそういう訳か。この方が今回共同脚本を担当した電通所属の人とともに、ヴェンダースに映像制作をお願いしたいと考えたようです。

安藤忠雄、槇文彦、坂茂、片山正通…。総勢16名が手がける公共トイレが渋谷に続々登場!
https://casabrutus.com/categories/design/153989

アスペクト比

さて上映開始。いきなり画面の縦横比率が4:3で驚く。作中にときおり登場するブラウン管テレビと同じアスペクト比。16:9を見慣れていると4:3がかなり正方形に近く見える。中判のフィルムカメラって正方形に撮れるんだっけ…ヴェンダースって写真も上手いのよね...など映画開始後1秒ですでに気が散っていた。

こちらの方が、小津映画へのオマージュではないかとおっしゃっています。また、写真に近いアスペクト比ではないかと。↓
なるほど!(お写真も素敵)

映画「PERFECT DAYS」を観て〜日常にきらめく機微な瞬間〜
https://note.com/italysato/n/nbcc3f1244fa3

こんな具合に映画に盛り込まれるものー 風景(ロケ撮影が多い)、レトロな小道具、キャスト、音楽などにいちいち反応してしまうのがPERFECT DAYS でした。だって馴染みのあるものがやたら多いんだもの。劇場に映画を見に行ってこんな体験をしたのは初めてだ。東京の景色や日本の役者や日本語をまったく知らない、そんな状態で鑑賞したらどんな印象を持っただろうか、と思いました。

THE HOUSE OF THE RISING SUN

最初のシーン、早朝仕事に向かう平山(役所広司)が車内で音楽をかける。メディアはカセットテープ。カセットプレイヤー付きのカーステレオって今もあるのかしら。それほど古い車を使い続けているということだろうか。ここでかかるアニマルズバージョンの「朝日のあたる家」The House of The Rising Sun。偶然だが私は最近この曲について「欲望という名の音楽: 狂気と騒乱の世紀が生んだジャズ」(二階堂尚、草思社)で読んだ(それをきっかけにニーナ・シモンの歌をちょくちょく聴いていたのでラストでおお、と思った。後述)。払暁の東京で聴く朝日のあたる家、一見爽やかな組み合わせだが実は曲調も歌詞も暗い。同書によればこの歌の歴史は古く、タイトルが表すのはニューオーリンズの娼家であり売春婦の哀しみを歌っている。朝イチで聴くにはなかなか重い曲だ。平山が朝から陽気な曲を聴くタイプではないことを表現しているのかもしれない。
しかしとにかく平山は朝の光が好きで、車に乗る前も乗ったあとも朝陽を見るとと少し笑みを見せる(この気持ちは分かる)。

「欲望という名の音楽: 狂気と騒乱の世紀が生んだジャズ」
https://www.soshisha.com/book_search/detail/1_2642.html

上記書籍のWEB連載時の文章を読むことができます。
ニューオリンズに落ちた売春婦の哀歌─「朝日のあたる家」をめぐる謎【ヒップの誕生】Vol.30
https://www.arban-mag.com/article/72750

東京画

なんて思っているうちに平山の車は首都高へ。何か既視感。これは…あっ!もしかして「東京画」?「東京画」はヴェンダース監督が小津安二郎の足跡を追ったドキュメンタリーで、1983年の作品。大昔、たぶん90年頃にNHK-BSで見た記憶が突然甦る。うろ覚えだが車から首都高を撮ったシーンがあった気がする(東京→鎌倉の移動のためだろうか)。このあとも首都高が映るシーンがあったのでヴィム・ヴェンダースは首都高が好きなんだと思います。

東京画
https://www.kinejun.com/cinema/view/12012

渋谷区

平山はTokyo Toilet Projectの清掃員。渋谷区各地の凝ったトイレ群が仕事現場。自分が実物を見たことがあるのは鍋島松濤公園のトイレby隈研吾だけだった。でも以前渋谷区の端に住んでいたので平山が巡るトイレのロケーションは見覚えのある場所が多い。映り込む周辺の風景に気を取られてしまった。どうもご当地映画的なものが好きでして。

ZEN MOVIE

平山は素早く丁寧に清掃の仕事をこなす。その動きには動作というより所作という言葉を使いたい。子供の頃に見たディズニーランドの掃除キャストみたい。仕事に無駄が無いのと同様に私生活でもほぼミニマリストな平山。業務連絡に必要なガラケーは持つがスマホ、テレビ、PCなどは無い。洗濯機もない。本とカセットと植物はある。畳に照り返す光が美しいすっきりした和室に暮らす。侘び寂びという言葉が浮かぶ。起床から就寝までルーティンは決まっており黙々としかし充実感をもってこなす。ここで思い浮かぶのはストイックな修行僧。欧米では禅の思想(らしきもの)は人気あるし修行場所である福井の永平寺も有名みたいだしね…とまた余計な思考が。平山が朝目覚めるときに聞こえる音が、向かいの寺社の前を掃き清める箒の音であることも、そのような連想を誘導していると思う。

「どこまでも詩的で美しい物語は、各国で "ZEN MOVIE"と評された」
(公式パンフレットより)

さもありなん。そういう描き方してると思うし、欧米ではそう捉えたがるだろうなと思う。しかしちょっとエキゾチシズムとかオリエンタリズムの風味が感じられないか。とはいえ平山のライフスタイルを好ましく描いているのは間違いないし、労働そのものを尊ぶ面がある(と、思う)日本文化は、労働が神の罰として人類に課されたという旧約聖書の捉え方とはだいぶ違うので興味を引くのかもしれません。

Trip Tips - Japan's Eiheiji temple: a night's stay in the 13th century
https://www.reuters.com/article/idUSKBN0TN1QF/

男はつらいよ

ますます話が逸れてゆくのですが、向かいの寺社の掃き掃除。あのシーンが繰り返し映されるうちに頭の片隅にほかの作品がチラついた。うーんなんだろう...とあとから思い返したところ山田洋次監督「男はつらいよ」シリーズでした。柴又帝釈天の寺男(佐藤蛾次郎)が境内の掃除をしているシーンをパラレルに思い浮かべていたのです。

そういえば「男はつらいよ」はヴェンダース監督が大好きな小津安二郎作品と同じ「大船調(松竹のホームドラマスタイル)」のカテゴリーに入り、小津映画のレギュラー笠智衆が帝釈天の住職「御前様」として出演している。車寅次郎もPERFECT DAYS平山も同じように時代からズレたレトロなライフスタイルを固持している。寅さんはアウトローで平山さんはカタギだけれど。妹がいて妹のほうから兄に連絡が付きにくい設定なのも共通している。ロケ撮影が多くご当地映画としての側面もある。あれ?けっこう似ているかも?

「男はつらいよ 」キャスト・人物相関図
https://www.cinemaclassics.jp/tora-san/cast/

大船調
https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%9D%BE%E7%AB%B9%E5%A4%A7%E8%88%B9%E6%92%AE%E5%BD%B1%E6%89%80_%E5%A4%A7%E8%88%B9%E8%AA%BF

代々木八幡

昼休みは木漏れ日を愛でつつ神社のベンチでサンドイッチを頬張る平山。あっ、この神社は。代々木八幡宮じゃないか。近くに住んでいた頃はよく散策に訪れたものです。ここをロケハンした人グッジョブ!そうそう、樹木が立派で良いのよー。縄文遺跡があって、木々の樹齢も相当なものだと思うのよー。いまは入口近くにお洒落トイレがあるのね。この近くの井の頭通りと山手通りの交差点あたりも出てきたね。東京ジャーミィ(モスク)のシルエットが浮かび上がっていた。ここ通勤路だったな。
などと心は代々木八幡周辺へ...

代々木八幡宮
http://www.yoyogihachimangu.or.jp/
東京ジャーミィ・ディヤーナト トルコ文化センター
https://tokyocamii.org/ja/

フィルム

平山は休憩中にオリンパスのコンパクトフィルムカメラでモノクロ写真を撮る。オリンパスは今は医療機器の会社だよね...アラーキーやHIROMIXが使っていたビッグミニはどこのだっけ...(←コニカでした)。フィルムは写真店に現像とプリントをしてもらう。これは現代ではちょっとお金のかかる趣味ですよね。お店のカウンターに見えるのはHOLGAのフィルム。えーHOLGAってトイカメラの。フィルムも出していたんだ。そしてこの店主は見覚えがあるけどなんていう役者さんだっけ、思い出せない...!と千々に乱れる集中力。

パンフレットを確認したところ、写真店店主はアメリカ文学者の柴田元幸氏でした。なぜ柴田先生が、と思いつつ読み進めると、カルチャー誌SWITCHの代表による役所広司インタビューがあり、この新井代表が文芸誌「MONKEY」(柴田元幸責任編集)を創刊したとあった。MONKEYってスイッチ・パブリッシングだったのかー、知らなかった。するとSWITCHつながりのカメオ出演だったのでしょうか。

公式パンフレットには柴田先生のコラムも掲載されていました。一方、写真繋がりなのでしょうか、森山大道、繰上和美撮影の写真が載っていました。あと川上未映子のコメントも面白いです。豪華。

HOLGAのモノクロフィルム
https://kawauso.biz/products/list?category_id=76
文芸誌MONKEY
https://www.switch-store.net/SHOP/83093/list.html

テント村

平山の仕事時間に話を戻すと、代々木八幡宮からほど近い公園にはゆっくりダンスをする只者ではないホームレスの男性(田中泯)がいる。代々木公園の西門付近には、ブルーシートのテントが集まっている場所がありました。そこに暮らす人ということかしら。最近行っていないのでどうなっているか分からないけれど。このテント村は代広い代々木公園の端にひっそりと存在していたためか、あまり知られていなかったように思う。

カセットテープ

ある日平山は若い同僚であるタカシ(柄本時生)に下北沢のカセットテープ店に連れてゆかれる。
ここで脳裏をめぐる高齢な我が父親のエピソード。カセットが若者に流行っていると何かで読み、中目黒のお店に行ってみたんだそうである。中目黒だからぜったいお洒落なお店だよね。来ているの若者ばっかりだよね。父はお店で平山のごとく浮いていたはずである。しかし彼は平山と真逆の饒舌な人間なので、おそらく周囲を気にせずにお店の人にペラペラと蘊蓄を披露したのではないかと...。そんな余計な思考に邪魔をされたシーンだった。

タカシが平山を下北沢に連れ出した理由は、ヴィンテージのテープは高値がつくから、手持ちのテープを売り自分にお金を貸してほしいというのである。へえ、私のマイケル・ジャクソン「スリラー」はいくらで売れるかなあ。いやいや、人の持ち物を売ろうとするなタカシー!

彼がお金を工面したがっているのは、どこかのお店(ガールズバー?)の女の子アヤ(アオイヤマダ)に入れ込んでいるからだ。そのアヤは平山の車で移動した際に聴いたテープの音色が気に入り、無断で1本持ち帰ってしまう。アヤよ、持って帰ったところでプレイヤーはあるのかい...。とここら辺はどうもツッコミを入れずには見られなかった。そして最大のツッコミどころはアヤが平山に好意を持っているという流れだった。お喋りなタカシとは対照的な寡黙さに惹かれたのか?カセットテープ趣味に心を掴まれたのか?それくらいで玄人の若い女性が初老男性に心を寄せるー???と、どうにも謎であった。ただしあれやこれやと集中力を削がれて見ていたので、何かを見逃していた可能性もあります。

カセットテープ店のシーンでは図々しいにもほどがあるタカシだが、仲良しの幼馴染がいて、ある日幼馴染くんは清掃現場へやってくる。タカシの耳たぶを触りに。というか耳たぶをもってタカシを認識している。二人は笑い合う。ほぼドキュメンタリーな、詩的できらきらと美しいシーンでした。タカシの善性に触れて、その夜の平山は満ち足りた表情で眠りに就く。

ドイツ表現主義

毎晩平山が眠ると画面は彼が見る夢に切り替わる。夢はいきなりドイツ表現主義「カリガリ博士」あるいはシュルレアリスム「アンダルシアの犬」のようなモノクロ映像。サウンドは不穏なインダストリアル系と言ったらいいんでしょうか。ほっこりした畳の部屋からの飛躍がすごい。あまりにも作風が異なるので、この部分はヴィム・ヴェンダースのパートナーのドナータ・ヴェンダースの作品かしらと思いました(クレジットにはインスタレーション担当とありましたが、写真や映像作品があるアーティスト)。独立した関連作品としてギャラリーなど別の場所で見たかった気もする。

カリガリ博士
https://eiga.com/movie/43468/
アンダルシアの犬
https://eiga.com/movie/4246/
ドナータ・ヴェンダース
https://donatawenders.com/gallery

古書

就寝前に文庫本を読むのが日課の平山は、古書店の百円コーナーで次に読む本を買う。本好きらしい古書店店主、誰だっけ(←犬山イヌコでした)。フォークナー、幸田文、パトリシア・ハイスミス。私はどの作家も未読だが幸田文はこのあいだ買ったアンソロジーに入っているから近日中に読もう。ハイスミスって「リプリー(太陽がいっぱい)」だよね(あとでパンフレットを見たら「アメリカの友人」(未見)の原作も彼女だった。知らなかった!)。Holgaフィルムもそうだがこのように実在のアイテムが登場すると気が散ってしょうがないのだった。

台東区

スカイツリーふもとのアパートに暮らす平山は、終業後に浅草駅地下の居酒屋で過ごす。昼はコンビニサンド、夜は飲み屋なので自炊はしないらしいことがわかる。地下への入口、松屋浅草前の小さな階段はどこから撮影したのかしら、向かいのビルかな?左にある(映ってはいない)神谷バーにまた行きたいな。この激シブ地下街は過去2回ほど行ってみたけど一度目は饐えた臭いがし、二度目はなぜか床が濡れまくってて長居できなかった。再チャレンジしなくては。

ウィスキーが、お好きでしょ

仕事中は過度なまでに無口、ストイックに見える平山が飲み屋では寛いだ表情を見せる。休日にコインランドリーで洗濯を済ませてから立ち寄るスナックでも同様。スナックのママが石川さゆりだ。脳内にサントリーCM 曲「ウィスキーが、お好きでしょ」が響く。「夜が来る」もこのお店に合うね、きっと。平山はママのお気に入りの客のようである。ママは文庫本を手にする彼を見て「平山さんはインテリね」と微笑む。

先客のリクエストに応えて日本語版「朝日のあたる家」を唄うママ(わー!大サービス!とエキサイトしてしまった)。演歌ではないけど演歌的情念に溢れた熱唱。ママ、只者でなさすぎる。ギターで伴奏をしているお客は誰だろう(←あがた森魚でした。もう一人のお客はモロ師岡でした)。
ここで再び登場する「朝日のあたる家」。どのような意図があるのか…。娼婦の哀しみを歌ったこの曲には刑務所または孤児院を舞台とした男性バージョンの替え歌があり、冒頭のアニマルズ盤はそちらだそう。さゆりママの日本語歌詞バージョンはクレジットによれば浅川マキが訳した「朝日楼」(←女郎屋の歌であることが伝わるセンス良いタイトルですね)。囚人、娼婦。どちらもどこかに囚われて抜け出せない人を描いている。

「ウィスキーが、お好きでしょ」
https://www.youtube.com/watch?v=mQrbw6oE-Zg
再掲:ニューオリンズに落ちた売春婦の哀歌─「朝日のあたる家」をめぐる謎【ヒップの誕生】Vol.30
https://www.arban-mag.com/article/72750

マルチバース

平山のもとに家出した姪がやってくる。名をニコ(中野有沙)という。サントラにヴェルヴェット・アンダーグラウンドの曲があるのでそこからのニコかしら。たしかに日本人の女の子の名前でもおかしくないな。このニコがむちゃくちゃ可愛い。もちろん演じている若い役者さん自身も可愛いらしいが、「この被写体を絶対にを可愛く美しく撮る!」という強い意志を感じた。マジックアワーつまり夕闇や夜明けの青さの中で目に光が入ったり、車の窓越しに写したり。ちょっと逆光にしたり。ほかの登場人物とは写し方が違うような。なぜこんなに力が入っているんだと気になりつつ見入ってしまったが、最後まで見終えたあと、もしかして?と思うポイントがあった。(後述)

隅田川の橋を自転車で渡る平山とニコ。

平山「この世界は、ほんとはたくさんの世界がある」

ここでいきなりマルチバースの話をしだすのかと思った。が、主旨が違うようだ。階層とか、コミュニティの話かな。

マルチバース
https://www.softbank.jp/sbnews/entry/20230424_02

公衆電話

行きつけの銭湯(ここも光が美しい)の休憩室から妹すなわちニコの母親に電話をする平山。夜には妹がニコを迎えにくる。なんと運転手付きの車で。ここで平山が相当に裕福な家の出身であること、父親と折り合いが悪かったこと、妹にも長年会っていなかったことがわかる。別れのときに見せる悲痛な表情はふたたび縁を断ち切る苦しみを表してるのでしょうか。妹が何か手土産(お菓子?)を渡すシーンがあったが平山の表情に引き込まれて、詳細を見逃しました。

平山はガラケーを持っているが銭湯では公衆電話から妹に連絡していた。するとガラケーは業務連絡専用で、同僚以外の誰にも番号を知られたくないのかもしれない。携帯からかけてうっかり番号が妹に知られてしまうのを警戒したのかもしれない。親しい友人もいなさそう。彼の人間関係は同僚と、お客として接するお店の人々だけのようだ。無縁、という言葉が思い浮かぶ。

監督によれば平山は今の生活を自ら選んでいるのだという(パンフレットより)。彼の美学に基づく暮らしを選んでいる、というと、一種の高等遊民のよう。いや勤労しているから高等遊民ではないか。でも平山が選べる立場にあるのは彼が恵まれた環境に育ち良い教育を受けたからだろうな、と思わせる。(甦るスナックママの声「平山さんはインテリね」)

何かを選んでいるということは選ばなかったものがあるということだ。平山は、プリントした木漏れ日写真の出来不出来をより分け、気に入らないものは破り捨ててしまう。その態度を見るとある種の潔癖症、嫌なものは断固拒否する人物だと思える。彼が選ばなかったものは彼が拒絶しているもの。人間関係、それをつなげるスマホ、PC。過去に家族とどんなことがあったのかは語られないが、それが原因で今のライフスタイルを選んでいるのだろう。

安藤玉恵

さてニコが家出してくる直前だったか、何事につけ適当なタカシが急に仕事を辞めてしまった。後任が決まるまで二人分の仕事を一人で受け持たされる平山。忙しすぎて本部?に「何回も電話したんだぞ」とめずらしく苛立ちをぶつける。

役所広司「監督は怒りをここではっきり表現するように演出された。それは、平山さんに対して親しみやすさを出そうとしたのかもしれません。」
(公式パンフレットより)

なるほど。たしかに印象に残っている。
そして数日後(でしょうか)、待望の後任清掃員登場。あっ安藤玉恵だ!と思ったらえっもう出番終わり??もう少し見たかった…。しかし短い時間ながら、真面目に仕事する人だろうな、今度からは彼女が女子トイレを受け持ってくれるんだろうな、と揺るぎない信頼感をもたらすのだった。説得力があった。

隅田川

説得力といえば終盤の友山(三浦友和)とのシーン。
友山とスナックママのただならぬ雰囲気に動揺し、ハイボール缶と煙草とライターを買って隅田川の河川敷に行く平山。あっここBlue Giant でサックスの練習してた場所だろうか、とか、ママのことそこまで憎からず思ってたのか…ちょっと勘違いしたお客では…と気を取られつつ見る。そこにやって来る友山。
自分的には平山と友山(なぜこんな似た名前なの)のこのシーンが映画の肝だと感じました。それまでは平山のライフスタイルに目が行きがちで、それはファンタジーのようでさほど心を掴まれなかった。

昔は喫煙者だったのだろうけど、平山も友山も煙草を一口吸ってむせる。二人の老いを感じさせるシーンである。友山は重篤な病を得て、別れた元妻(スナックママ)に会っておきたいと思ったという。それは謝りたいような心境か…というようなセリフがある。おそらくママを捨ててほかの女性と再婚した友山。その罪の意識があるのだろう(すると囚われ人の歌、朝日のあたる家を熱唱するママを囚えているのは夫に捨てられたというトラウマだろうか)。
どうも人間とは罪を贖いたい、というより罪悪感を抱え続けるのが苦しくて謝ったり怒ったりするのかな、と思う時がある。友山にもそういう身勝手さを感じるが、彼の語り口が弱々しく死期が近いことを感じさせる。

友山(か細い声で)「結局何も分からないまま終わっちゃうのかなあ」
(すみませんセリフうろ覚え)

うわー私も死期を悟った時にはこんなこと考えそうだな。とこの映画のなかでいちばんリアリティを感じるシーンだった。老齢期にあるヴィム・ヴェンダースの心の声だったりするだろうか。

影踏み

影踏みしませんか、と平山が言う。夜の影踏みというアイディアが美しい。道具がなくてもできる遊び、影踏み。久しく忘れていた遊び。影と影が重なったら濃くなるのだろうか、それとも変わらないのだろうか。やっぱり変わらないか...と失望する友山。

平山(力を込めて)「なんにも変わらないなんて、そんな馬鹿なこと無いですよ!」(すみませんセリフうろ覚え)

寡黙な平山が感情のこもった声を出す。彼が力強い喋り方をするのはここと、仕事の手が足りなくてイライラしているシーンだけかもしれない。
平山と同世代であろう友山の姿が老いや死を象徴している。孤独さを楽しむ平山の生活は健康だから実現できるんだなあ。遠からずやって来る老いや病にはどう対峙するのかな。という問いが浮かぶシーンだった。

日本文化

あとから振り返ったときに、友山は仏教の四苦(生病老死)のうち三つの苦しみ、病と老いと死を背負って現れたんだなと思いました。
仏教では執着は煩悩の元とされる。「朝日のあたる家」、囚われ人の歌を愛する平山そしてスナックママはそれぞれ過去のトラウマ、執着に苦しむ者として描かれてるのかな?とも思った。
日本では仏教は死を弔うことができる宗教。神道というか古来のプリミティブな宗教は死を扱わないから、そのような物が必要だったといわれる。神道に教義はなく、若さや生命力をことほぐことが主眼。神社とは呼べない小さな祠であっても常緑樹の榊が供えてあったりして、自然崇拝の名残を感じる。結婚式は神式がポピュラーで、葬儀は仏式がメジャーであるところからも、求められる役割が違うのが分かる。

そんなプリミティブなみずみずしさを体現する人物がいなかったか。いたよ。ニコである。ニコのヴィジュアルはキャラクター云々より若く健やかな被写体として映し出されていた、と思う。ほかの登場人物とは明らかに写し方が違っていた。ということはもしかして、友山は仏教、ニコは神道/自然崇拝を象徴してるのか。
このアングルで考えてみると平山のルーティンに組み込まれた朝の陽光を眺めること、木漏れ日を愛でることはもしかして太陽崇拝の名残り。日の本の人だもの。という見方もできるのでしょうか。なんだか壮大な考察、いや妄想に行き着いてしまったが、監督が日本的なるものを作品に反映しようとしたら自然とこうなった可能性もありますね。長い長い信仰の時代があったので、その考え方や生活習慣が現代の我々にもきっと表出していることだろう。

FEELING GOOD

ラストシーン、役所広司の演技に見入る長回し。平山の中に感情の起伏が甦ったのかもしれないし、夜明けの美しさに切なくなったのかもしれない。何が起きたのかはっきりとは分からないが、何らかの変化をもたらしたのは友山の存在であろう。そしてここでかかるニーナ・シモン「フィーリング・グッド Feeling Good 」。痺れました。新しい夜明け、新しい日、新しい人生の始まりだと、生まれ変わるような気分を歌う。私は歌詞の聞き取りが苦手なのだけど、このシーンではとてもはっきりと聴こえた。
劇中アニマルズ版、石川さゆり版が流れる「朝日のあたる家」はニーナ・シモンの歌唱でも知られる。売春宿では朝日のあたる頃が仕事を終える時間である。足抜けできない娼婦の哀しみ、疲労を感じさせる歌から、曙光を浴びながらのFeeling Good。夜が明けた、私は生まれ変わった、なんと気分の良いことだろうと力強く歌う。朝陽のイメージの転換と言いましょうか。執着を捨てて悟りに至るというのが仏教の教えだそうですが、平山は何かの執着を手放せたのではないか。そんなふうに思うラストでした。

エンドロール

ラストといえばエンドロールにKomore-biの説明。これは個人的には、いらなかったのではないかと…映像が素晴らしいんだから別に良いじゃない、みたいな...。でも監督はカンヌでエンドロールが終わるまで客電を点けないよう会場に依頼し、自身もずっと席から立たなかったそうなので、こだわりのある部分だったようです。日本的な表現へのリスペクトだったのかもしれません。

この「木漏れ日」が日本語にしかない表現だという言説って、英語圏で流行ったのかな?というのも2020年頃だったか、取引先のイギリス人が、自社のブログにこのことを書いていたのです。スペルも同じKomore-bi。そして2021年、朝ドラ「カムカムエヴリバディ」では進駐軍兵士ロバートがこのことを主人公に伝えるのです。こうなるとどこかに元ネタがあるはずですが、数年前に「他言語に翻訳できない言葉」を集めた洋書を紀伊國屋で見かけたので、あれかな。

先ほど映像が素晴らしいと書きましたが、ストーリーとも密接にからむ光と影の表現の美しさが、さすがだなあと思いました。それは普遍的というより、ローカルな美しさを映しているというか...畳の照り返し、銭湯のタイルの反射、休憩室の光と影など。あと光ではなくてトイレ壁面に揺れる木の影。私は陽が斜めに差す時間帯に見えるこういう影が好きでして、平山が影を見て笑みを浮かべたとき、あっこれを好きな人が自分のほかにもいるんだ、と少し嬉しくなりました。

PERFECT DAYSの作品紹介では主人公のライフスタイルが話題になりがち。でも自分には作り物めいて見え、あまり心を動かされなかった。美しいと同時に何かを頑なに遠ざけているように見えた。だからポスターのコピー「こんなふうに生きていけたなら」もピンと来なかったんですよね。人生すでに折り返している自分には終盤の友山とのシークエンスがハイライト。三浦友和の説得力よ。終わりを知ったときに生きとし生けるものの生命力がいっそう輝いて見える。

冒頭に記したようにPERFECT DAYSには馴染みのあるものが次々と登場してそれが鑑賞中のノイズだった。さらにこうして思い出し書きをしているだけでとめどなく思考が広がっていきました。作品が内包する情報量が膨大なのですねきっと。たぶん、見るたびに新たな発見があると思う。アナログのメディアってなんでも記録するでしょう。それを再生したりプリントしたりするときのやり方で細かいものがキャッチできない場合があるのだけど、録音されている、映っていることには変わりない。デジタルのようにカットされないから。そんなアナログ感のある作品と言えるかもしれない。
あっ...カセットテープもモノクロフィルムも、アナログですね。


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