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雨の日の奥入瀬で

あなたはちんちんを雨に打たせたことがあるだろうか。

生物としてちんちんを搭載していない場合はもちろん無理だし、仮にちんちんを完備していたとしても、『海辺のカフカ』の主人公でもない限り「意外とないな……」と思った人が大多数のはずだ。

なぜなら雨に打たれるには外に出ないといけない。なおかつ、ちんちんは普通は外で出すことができない。雨とちんちんのパラドックス。両者は永遠に交わらない運命(さだめ)なのか。

しかし絶望するなかれ。ちんちんを雨に打たせることができるロケーションはしっかりと存在する。「大雨の露天風呂」だ。筆者は青森県・奥入瀬へ旅行したときこの好条件に遭遇した。この機を逃せば筆者のちんちんは雨に打たれないまま一生を終えるだろう。そんなことがあってたまるか。我が子のごとく愛するちんちんには出来うる限り色々な経験をさせてやりたいものだ。憐れなるかな男心。Make hay while the sun shines. (善は急げ。)ここで行かねば冒険者(アドベンチュアラー)の矜持が廃る。

露天風呂の前、木々は七月の緑を纏う。川は轟々と流れる。雨は間断なく降り注ぐ。目を開けているのがやっとの有り様。そこへ負けじと仁王立ち。眼光鋭し、意気猛々(たけだけ)し。この地に屹立せんがために生まれた一人の戦士よ。今ちんちんはお湯の庇護を脱し、単身、雨粒とのバトルステージにあり。

雨は悲しみの比喩である。そこに雨が降るならば、誰かの悲しみが降らせているのに違いない。海水が蒸発し、積乱雲になり、雨になって地面に染み込み、川を経てまた海へと流れゆく。人生にも似た果てしない繰り返しの中では成程、悲しむことだってきっとあろうと一人合点。

雨は詩を背負う。なればこそ、一滴一滴が重みを持つ。

一方ちんちんは何の比喩にも用いられない。ただひたすらに、ちんちんである。ちんちんはちんちん以上でもちんちん以下でもない。しかしながら人の一生はちんちんから始まることを、皆忘れてはいないだろうか。

元始、ちんちんは太陽であった。

されど容赦ない雨を受け、ちんちんは揺れる。それは風に吹かれた花のように。

雨「ドドドドドドドド」ちんちん「ドドドドドドドド」

雨「パラパラパラ……」ちんちん「パラパラパラ……」

雨「ドッ ドッ ドッ」ちんちん「ドッ ドッ ドッ」

お分かりいただけただろうか。雨の強弱にちんちんの動きが呼応しているのだ。これはじつに衝撃的だった。だが考えてみれば当たり前だ。

ちんちんは自ら動くための力をもたない。たまに動くときもあるが基本動かない。シャイなあんちきしょうだ。となれば露天風呂にて大自然を睥睨するちんちんには、重力を除けば雨だけが力を及ぼしていることになる。比喩ではなく、そこでは雨とちんちんの一騎打ちが繰り広げられていた。筆者はちんちんに願いを託す、もはやひとりのギャラリーに過ぎない。Fight, my son, CHIN-CHIN。いや、You are my SOUL! SOUL! いつもすぐそばにある……TIN-TIN for dream。

結局ちんちんは雨に勝てたのか。それはちんちん本人にしか解らない。そんなちんちんの激闘をよそに、筆者の脳内にはある歌が流れていた。

咽せ返る生命(いのち)のにおいと 目を細めるほどの色彩 我は今 生きている My Life ――ポルノグラフィティ『オー!リバル』より

「我は今 生きている」。雨、自然、地球の中で。ちんちんの織り成すユニバースの中で。ちっぽけな自分でも生きている。誰にも文句を言わせぬほどに生きている。

ふと我に返れば、当然のごとく筆者の顔は濡れている。肌を覆うは涙か雨か。ちんちんと雨に筆者は救われた。身体性を取り戻し、生命力を取り戻し、あの日の悲しみさえあの日の苦しみさえそのすべてを愛してたあなたとともに。

雨の日はこんな過ごし方も悪くない。

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