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大和国訪問記【東大寺二月堂修二会編】

ありがたくも今年も東大寺の修二会を拝観することができた。
あの「お水取り」と呼ばれている行事である。

「お水取り」を知ったきっかけは2021年のNHK番組と、今や「ニコ局(つぼね)」として親しまれるようになったニコニコ美術館の「修二会」中継だった。

「ニコニコ美術館」が二月堂下に設置した「カナリオタカイカメラ」
今年の配信はより画像が鮮明になっていた。
さらにマイクもよいものを導入されたそうで、音声もよりクリアに聞こえる。
今年も助けられました、ありがとうございました。
(2024年3月11日)

2021年、新型コロナウイルスの流行により、人間同士の交流の機会は大きく妨げられることとなった。
感染対策が優先され、ごく少数の知人同士の食事会から公的機関の会議、美術館博物館の企画展・特別展の中止や休館、地域の祭礼までも極端な簡略化や中止が相次いだ。(それは誤りではなかった、未知の病原体に対して多くの人が命を守る適切な行動をしたと私は考えている)
そうした中で美術館・博物館の活動を多くの人に知ってもらおうと行われたのがニコ美chの博物館・美術館の企画展中継だった。その中に一つに東大寺の「修二会」と奈良国立博物館の特別陳列展「お水取り」の展示中継があった。
NHKの取材班も隔離生活をしながら、感染対策を模索し1200年以上も途切れたことのない法会「修二会」に挑む参籠衆のドキュメンタリーを放送した。
そこで行われた見たこともない行の映像に私は圧倒された。
「自分の目で見たい!」

2023年3月、運良くお宿が確保でき、なんの予備知識のないままとにかく東大寺二月堂を訪れ、親切な修二会ガチ勢&リピーターの方々に助けられ、二月堂真下で「お松明」を拝観。
感染対策で堂内への立ち入りが許されていない中、寒さに震えながら二月堂の壁に耳を当て、内陣から漏れる差懸の音や声明を聞いた。(のちにこれは修二会ガチ勢により「壁耳聴聞」と称されていたことを知った)
一体これは何を歌っているのか、この行事はなんなのか、どの場面がどんな意味を持つのかとても興味深かった。
ところが奈良の寒さは諏訪の民にも厳しかった。
壁耳聴聞の過酷な冷えに耐えきれず短時間でドロップアウトした我が身の準備不足を反省、次はある程度の予備知識と寒さ対策を携えて再訪することを誓った。

以下は今年ありがたくも再訪できた「修二会」についてのレポートである。
ミーハーにも「お松明」という窓から修二会の世界を覗きこんでしまった私にはあまりにも深く広くつかみどころない世界で、小指の爪の先にもならない程度の断片的な情報しか得られていない。
しかし、例えば、興味を持って拝観に赴かれるかたのいくらかのお役にたてば幸いと思う。
その辺りをご容赦いただき、よろしければ先にお進みください。

「修二会」とは

「しゅにえ」と読む。
東大寺の修二会に限っては「お水取り」とも呼ばれて親しまれている。
「お水取りが終わると春になる」と近畿地方の人たちはそう言って春の訪れを待ち侘びる。

修二会はごく簡単に説明すると、世の人々が行ったすべての罪業を「練行衆」という11名の参籠僧が世を代表し観音さまにはお詫び申し上げお許しをいただき、生きとし生けるものの幸せと世の安寧を願う法会とされている。
奈良時代の大仏開眼と同じ年に始まったとされ、毎年途絶えることなく続けられ、今年で1273回目だという。
南都焼討(1180年)で主な堂宇が失われても、戦乱で大仏殿が焼け落ち(1567年)ても、決して途絶えることなく続けられ、太平洋戦争最中にB29が上空を飛び交う夜(1945年) も二月堂の扉をしっかり閉じ行われた。
どんな困難な状況下においても途切れることなく続けられたため「不退の行法」と言われている。

今は3月1日〜14日まで行われるが、かつては旧暦2月1日から14日間行われていた。
故に法会の場となるお堂は「二月堂」と称されている 

お松明

東大寺二月堂の修二会、と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、このような景色ではないだろうか。

東大寺二月堂を駆けるお松明
火の粉をあびると風邪をひかないという(諸説あり)
 (2023年)

この大きな松明はもともと初夜の行法時、練行衆が二月堂に上がる際、堂童子(どうどうじ、各練行衆に付く世話役)が掲げる道案内の松明だと言われている。
年月を経て、見物に訪れる参拝者に応え巨大化した経過があるようだ。
大きく見栄えのよさを求め派手になりすぎ、江戸時代には火災の恐れも大きくなるからと松明を小さくするよう寺から要請があったが、見せ場を求める堂童子らからの反発もあったという。

二月堂の欄干
お松明を掛けて回す部分が摩擦で凹んでいる。
(2024年3月11日)

特に3月12日のみあがる「籠松明」はひときわ大きく見応えがあり、二月堂はより多くの参拝者が詰め掛ける。

松明の材料になる青竹やスギの葉、薄い檜の板などの松明の材料は東大寺を支える信徒の会「講」が寄進する。
制作は日中、堂童子らが行う。

食堂の庭で松明を制作する堂童子の皆さん。
この日は翌日に使う籠松明と未明の法要に使う特殊な「達陀松明」も作っていた(2024年3月11日)
お松明にはスポンサーも。
歌手のさだまさしさんは毎年お松明を出していらっしゃるという。(2023年)

【お松明拝観のポイント】

  • お松明拝観は二月堂下芝生または第二拝観所(宝厳院近くの広場)
    二月堂下
     お昼頃には入場のための待機列ができている。
     2024年は17:00頃には入場締切、制限がかかっていた。
     カメラの三脚、フラッシュ使用禁止、周辺も同様。
     雨天でも傘の使用はできない。時には雪が降る。
     防寒も兼ねて雨具必須だが、お松明の火の粉で穴があくこともある。
     19:00まで待つことになるので、座って休めるように敷物必須。
     芝生は斜面なので平なところが確保できると楽。
     芝生の奥の方は上堂する練行衆を間近で見られる。
    第二拝観所
     遠くに二月堂を望むが、カメラマン席あり、三脚もOK

  • お松明の燃えさしは半紙に包んで玄関に下げると厄除けになるという
    見つけたら拾って持ちかえることができる。(お松明直後は雑踏で危険)
    後日、四月堂前などでいただけることもある。

お松明前の二月堂下芝生。
通行も規制される。(2024年3月8日)

練行衆(れんぎょうしゅう)

修二会の最中、練行衆が身につける「紙衣(かみこ)」。
過去の修二会で実際に練行衆が身につけていたもの。
内陣は火を使うので、衣も煤で黒くなる。
膝の部分は五体投地のため穴があいてしまうためついである。
(ホテル尾花ロビー展示)


修二会に参籠する11人の僧を「練行衆」という。
役割が各々割り振られており、二月堂内陣でも座る場所が決められている。
大きく「四職」と「平衆」に分かれる。

四職(ししき)
各々三鈷鐃と呼ばれる鈴を持つ。結界や勧請、加持などのために鳴らされる。それぞれ形や音が異なる。特に大導師の持つ鐃は和紙が貼ってあり音色が他と大きく異なる。作法の区切りなどの合図に用いられることもあるためと言われている。音の聞き分けも修二会ガチ勢の嗜みとか。

・和上(わじょう)受戒を行う
・大導師(だいどうし) 修二会の最高責任者
・咒師(しゅし)結界や勧請などの密教的修法、神道的作法を司る。
                   錫杖を持つ。閼伽井屋に入って水を汲む役目がある
・堂司(どうつかさ) 進行の監督。錫杖を持っている。 

平衆(ひらしゅう)
声明のリード役を交代で勤めたり礼堂での五体投地をする。
また、神名帳の奉読を交代で担当する。ただし参籠3回目以降の者が奉読するしきたりになっている。
下記の通りの序列がある。

・北衆之一 平衆の統括
・南衆之一 錫杖を持っている
・北衆之二
・南衆之二
・中灯之一 書記役
・権処世界 処世界の補佐。錫杖を持っている
・処世界 修二会の雑務担当。内陣の掃除も行う。

かつて上七日(一日〜七日)と下七日(八日〜十四日)で練行衆が入れ替わった時代があるが、現在は入れ替わりせず、特別な事情のない限り前年の12月16日(東大寺の開山者、良弁僧正の忌日)に発表されたメンバーで勤めている。

練行衆が履く「差懸(さしかけ)」、底は分厚い木でできている。
これで堂内を歩くと大きな音がする。
リズムを取ったり、次の場面への合図にも使われているという。
(ホテル尾花ロビー展示))


前年12月に選ばれた練行衆は、2月20日に「別火(べっか)」と呼ばれる精進生活に入り、戒壇院別火房に移る。
観音様を飾る椿の造花を作ったり、紙衣のための和紙を整えたり、声明の稽古など行のための準備をする。

二月堂周辺には邪気が入らないように注連が張られる。
(2024年3月11日)
2月25日に行われる「注連撒き」。
 二月堂鎮守社(遠敷社、飯道社)に詣でたあと、堂童子が輪締めを石段上から童子に向かって撒くように投げてキャッチされたものだけを使う。
地面に落ちてしまったものは「塵」と読んで使わない。
輪締めは関係者の自宅や坊にかけられる。
(2024年3月11日)


さらに25日からの「惣別火(そうべっか)」になると私語は禁じられ、湯茶も自由に飲めないなど作法が厳しくなり、外出も禁止される。自室から出る際も屋内であっても草履を履き「テシマゴザ」という敷物の上以外は座ることも許されない。火鉢以外の暖もなしという非常に厳しい精進生活に入る。
2月末日には二月堂下の山籠宿所へ移動、他の練行衆たちと合宿生活をしながら修二会に臨む。

和紙で出来た椿。
東大寺開山堂の庭にある「良弁椿」という赤に白が混ざる花を模している。
白の部分を糊に見立て「糊こぼし」という愛称がある。
この造花は二月堂内陣で本尊を荘厳するアイテムのひとつ。
(ホテル尾花ロビー展示)

聴聞のこと

二月堂の中では1日に6回の祈りが捧げられている。
6回あるので「六時の行法」と言われる。
  日中(にっちゅう、13:00ころ)
  日没(にちもつ、14:00以降、日によって異なる)
  初夜(しょや、お松明の後)
  半夜(はんや、22:00〜23:00前後、日によって異なる)
  後夜(こうや、23:00〜0:00前後)
  晨朝(じんじょう、25:00ころ)
特に、初夜と後夜は内容が複雑である。
神名帳や過去帳が読まれたり、「大導師作法」「咒師作法」と呼ばれる独特の行法や「水取り」「達陀」といった儀礼が組み込まれる。

聴聞(ちょうもん)とはこれらの行を外陣の外の「局(つぼね)」等で聴くことを言う

  1. 声明(しょうみょう)
    ざっくりいうと、経に長短、緩急をつけて独特の節回しで読み上げるものをいう。
    東大寺修二会においては、鈴や法螺貝の音が加わって、より音楽的になる。
    声明を唱え、本尊である十一面観音を繰り返し讃え(とくにリズミカルな「南無観」が最も知られているでしょうか)、人々の幸福、世の平安を祈念する。
    六時のそれぞれの経文はおおむね共通しているが、初夜や後夜には「五体投地」や「称名悔過」などの動きのある行法が加わっている。
    さらに「大導師作法」「咒師作法」と呼ばれる行があり、神名帳奉読や日によって過去帳の読み上げが加わるなど複雑さを増す。

    「大導師作法」に諷誦文(ふじゅもん)よばれる大導師の祈りの言葉がある。「現在句」と「過去句」で構成され、その時々の世情が織り込まれ、14日間、本尊の十一面観音に向かって読み上げられる。
    今年の大導師は昨年に続いて森本公穣師。
    暗がりの西の局でじっと耳をそばだてて、内陣で唱えられる師の諷誦文をお聞きする。
    師の諷誦文は東日本大震災の被災者に心を寄せ、元日の能登半島地震の復興を「一日も早く」と祈る。そしてガザやウクライナで起きている紛争、犠牲者と遺族の安寧を祈ると共に、師の悲しみと嘆きの込められた人類への強いメッセージがしんとした暗がりに響く。
    「ああ、人類は永遠(とわ)に争いを止めぬか」

  2. 神名帳(じんみょうちょう)
    初夜に毎日奉読される。
    東大寺周辺に鎮座する神々から、だんだん地域を広げて、最後には「御霊」と呼ばれるこの世に恨みを残して亡くなった人の霊(早良親王や菅原道真とか)を読み上げる。
    読み上げは最初はゆっくりであるが進むにつれテンポが早くなる。特定の神名ははっきり読んだりするようであるが、早すぎてほとんど聞き取れなくなってくる。
    御霊の読み上げになるとテンポを落とし、声も低くなる。これは鎮魂の意味もこめられると言われている。

    我らが「諏訪大明神」も読み上げられるが、これはなかなか聞き取れない。「鹿嶋大明神」のあとという読み上げも、諏訪の民としては少し引っ掛かりを感じる。
    さらに後半には「守屋大明神」が登場するが、この神が諏訪のモリヤのことなのかはわからない(山口県下関市の杜屋神社であるという研究者がおられる)。
    余談ではあるが2022年に亡くなられた東大寺元長老・守屋弘斎師は中洲神宮寺の生まれだそうで、神名帳に「諏訪大明神」と「守屋大明神」があったことに驚かれたのだそうだ。

    かつて、修二会は旧暦2月1日から14日間行われていた。
    それはいわゆる祈念祭の時期にも当たる。
    五穀豊穣と世の安寧を祈る場に、神々をお呼びしその力もお借りしようということのようだ。

  3. 過去帳
    「など我が名をば過去帳には読み落としたるぞ」
    恨めしげな声がした。
    13世紀、修二会の只中、過去帳を読み上げていた練行衆・集慶の前に突如として現れた女性。
    二月堂内陣は女人禁制、こんなところに女性がいるはずはない。
    女性の衣の色から集慶はとっさに読み上げる
    「青衣(しょうえ)の女人」

    過去帳は5日と12日の初夜のみ読み上げられる。
    神名帳と同様に独特の節回しがある。そして参籠5回目以上の練行衆でなければ読むことができない。
    過去帳には創建の聖武天皇をはじめ、僧侶や時の有力者、田畑を寄進した人たち、東大寺にゆかりのある人々の名前が連なる。
    その中にどこの誰とも名も知れぬ女人の存在。
    密やかに読み上げられるこの「青衣の女人」を聞きに、二月堂を訪れる聴聞者も多いという。

  4. 走り
    東大寺の実忠和尚が笠置の龍穴で見た兜率天の行にいたく感動し、これを人間界に持ち帰りたいと願い出る。ところが兜率天の1日は人間界の400年にあたるという。「人間にはできない」と諭された実忠和尚は「ならば走って修めましょう」と申し出る。
    そこで、本尊のある須弥壇のある内陣を練行衆が走って周回するという「走りの行法」が生まれたという。
    本尊を讃えながら須弥壇を周回し、やがて練行衆は差懸を脱ぎ、駆け出していく。順次内陣から礼堂に飛び出し、五体投地を行い、また内陣へ戻っていく(この時、内陣と礼堂を隔てる戸帳は巻き上げられるため、西の局からは内陣の様子がうかがえる)

    「走り」の行われる日は限られている。
    3月5〜7日、12日〜14日の半夜となっている。

夜の二月堂。誰もが耳をそばだてて、内陣の様子をうかがう。
どうぞお静かに。
(2024年3月8日)

【聴聞のポイント】
・局(つぼね)で聴聞ができる。局は東西南北、4か所。
 内陣と礼堂の正面が「西の局」。
 格子の向こうに五体投地や戸帳の中の様子がうかがうことができる。
 「香水授与」は西の局でなければ受けられない。
 聴聞者は行のどんな場面を拝観したいかによって、局を選んでいる。
 ちなみに観音様に最も近い局は東の局。
・聴聞必携
 靴袋 局は畳敷き、靴を脱いであがる。靴を入れる袋があるとよい。
    ガサガサ音のしない袋、不織布や布製がベスト。
 防寒用品 ガチ勢は着込んだ上に、毛布や座布団を持参。
      随所にカイロも仕込んで、未明の練行衆下堂までいる方もある。
      じっとしているのでかなり冷える、万全に。
      着ている物は煤だらけになる覚悟で。
 マスク 今年の聴聞は感染対策としてマスク着用が聴聞の条件だった。
     が、感染云々関係なく着用が望ましいと思われる。
     堂内の灯りは灯明などの炎で賄われているため、堂内は煤だらけ。
     マスクも真っ黒、鼻の穴も真っ黒。替えのマスクもあるとよい。
 懐中電灯 帰り道の境内は暗い。転倒防止、防犯にも安心。
 トイレ  四月堂下のトイレが一晩中使える。
 禁止事項 飲食、私語禁止。
      堂内の撮影、録音も禁止。
      音や光の出るものは行の妨げになる。特にスマホは電源OFF。
      場所取りもNG。
      どうぞ利他の精神で譲り合ってお願いします。 

水取り

3月12日後夜(13日午前2時前後)、咒師と堂童子、水を入れる桶を持った庄駈士(しょうのくし)だけが二月堂の真下「閼伽井屋(あかいや)」と呼ばれる建物の中に入り、「若狭井(わかさい)」という井戸から水を汲む。
閼伽井屋の中で見たことは決して口に出してはならないという決まりがある。

この水は「香水(こうずい)」と呼ばれ、聖なる水として二月堂まで運ばれ、本尊に供えられるほか、練行衆や参拝者にも分けられる。
(ちなみに二月堂の授与所では年中瓶に入ったお香水を分けてくださる。)

前年の榊が残ったままの閼伽井屋
(2024年3月8日)
翌日の「水取り」に備えて新しい榊がつけられた閼伽井屋
「閼伽井屋飾り」という
(2024年3月11日)

むかし、実忠和尚が修二会の際に全国の神々を勧請した時、若狭の遠敷(おにゅう)明神はうっかり釣りに夢中になっており、修二会に遅れてしまった。
そのお詫びに二月堂下に水を湧かせたのだという。

閼伽井屋の屋根には遠敷明神のお遣いの鵜が飾られている。
画像奥は二月堂。
(2024年3月8日)

「水取り」から先立つこと10日前、若狭国では「水送り」が行われる。
現在の福井県小浜市の遠敷川鵜瀬に若狭神宮寺の僧侶が白装束の行者姿で護摩を焚き、祝詞を読み上げ、境内の井戸から汲んだ水を注ぐ。
この水が閼伽井屋の若狭井に届くということである。

奈良と若狭は京都を経由して「鯖街道」でつながる。
日本海側からも多くのモノや人の流れがあったことも想像できる。

二月堂裏手には二月堂の鎮守社のひとつとして遠敷神社がある。
(2024年3月8日)

この「水取り」は籠松明の上がる12日と同日夜に行われる。
修二会の超ハイライトでもあるが、非常に混み合いお松明拝観もさらにエリアが限られる。また局は講社のメンバーや招待者に割り振られるため堂内での聴聞も難しい。
2024年は感染対策も兼ねて、一般人は参拝を控えるよう東大寺からアナウンスがあった。

達陀(だったん)

3月12日〜14日の後夜に行われる。
練行衆が八天になり、それぞれの呪物を持つ。
内陣で大きな松明をもち火の粉を散らしたり、香水やハゼ(もち米を炒ってはぜさせたもの)を撒き、鈴・錫杖・法螺貝を鳴らして法会の場を清める。
その後、大導師扮する「火天」が炎のついた達陀松明をかかえ、和上扮する水天が水器を持って、向き合い踊るように礼堂で飛び跳ねる。
修二会の中でも最も華やかで幻想的で、躍動感ある行である。

下記は東大寺が公開している達陀の映像である。

達陀のときに練行衆が扮する八天は「達陀帽」という絢爛豪華な特殊な帽子をかぶっている。
この達陀帽は全ての行が開けた翌日15日、参詣にやってきた子供たちがかわるがわるかぶる「達陀帽戴かせ」という行事にも使われる。
達陀帽をかぶると八天の呪力が宿り、病気をせず元気に育つことができるという。
行の明けた練行衆も晴れやかな、リラックスした表情をみせるひととき。

ふたつの本尊

二月堂の本尊は十一面観音とされている。
お堂の内陣には実は、十一面観音が2体安置されている。
どちらも絶対秘仏である。
平安時代後期の図像集にはその姿がスケッチされており、その引用が今日残っている(『類秘抄』1220年)ため、おおむねの像容はうかがうことができる。
1体は「大観音(おおがんのん)」、もう1体は「小観音(こがんのん)と呼ばれている。
大観音は二月堂内陣中央に常に安置されている。
小観音は常時厨子の中に安置されている。
3月7日、小観音は大観音背後から二月堂内の礼堂(らいどう)に移る。これを小観音出御(こがんのんしゅつぎょ)という。この時に、東大寺の鎮守社手向山八幡宮から宮司が参向し堂童子と共に警護につく。
そして深夜、厨子のまま礼堂から外陣をめぐり南面の扉から内陣へ移動し、大観音が安置されている須弥壇正面へ安置され、下七日以降の本尊となる。そして翌年の2月21日にまた大観音の後ろへ背中合わせに安置される。
つまり、修二会の前半(上七日)は大観音、後半(下七日)は小観音と本尊が入れ替わる。

  1. 大観音
    『奈良六大寺大観』という書によると、
    ・高さ6尺余(約180cm)
    ・金銅十一面観音立像
    ・二月堂内陣中央の岩盤上に立っている
    とされる。
    おおむね等身大の立像と推定されている。

    絶対秘仏ではあるが、断片は公開されている。
    それは1677年の修二会期間中に二月堂でおきた火災で損傷した大観音の光背や天衣の一部で、それらの大きさから大観音のサイズが推定でき、おおむね『奈良六大寺大観』の記述に近いと考えられている。
    また、表面に線刻された千手観音はじめ仏教世界の図像や、像の材質からおおむね8世紀ころの製作と推定され、二月堂創建より古いことがわかっている。
    もともと二月堂の本尊として造られたものではなかったこと推測されている。

  2. 小観音
    小観音の姿はさらに謎めいている。
    小さな厨子に納められ、しかもこの厨子には扉がなく開かれることもない。
    小観音の図像として残されるのは先出した『類比抄』のほか僅かである。
    その像容は特殊だ。
    観音の頭上に中央・左右の三面が3段重なりその上に仏面がひとつ載っている。
    つまり合計4段。
    日本には類例がなく、インドで似たような十一面観音が確認されているという。

    小観音には勧請の物語がある。
    『二月堂絵縁起』(1545年)によると、
    ・実忠和尚(二月堂開基)が笠置の龍穴に入り兜率天に行き、十一面悔過の行法を拝し、人間界へ移そうとした。
    ・しかし必要な生身の観音がなく、実忠和尚は難波津に赴き補陀落山に向かい、勧請祈念した。
    ・100日ほどのち、生身の十一面観音が補陀落山から閼迦器に乗ってきた
    ・この像を羂索院(今の二月堂)に安置した
    と語られる。
    また、鎌倉時代の文書には、この十一面観音について「忠(実忠和尚)喜んでこれを取れば銅像なり。その長七寸、暖かきこと人膚の如し」と記される。

  3. なぜ入れ替わるのか
    修二会に期間中に本尊は入れ替わる。
    3月7日に大観音の前に厨子ごと安置された小観音は翌年の2月21日、修二会の前に行われる内陣の掃除の際に礼堂に出される。
    この時に「御輿洗い」として丁寧に厨子が拭き掃除される。
    この後、内陣に戻されるが、正面でなく大観音の後ろに背中合わせに安置される。
    つまり大観音は「上七日」のみ本尊をつとめ、他の間は小観音が本尊となる。
    この奇妙に見える本尊の入れ替わりには、もともと小観音は二月堂に常に安置されていたのではなく、修二会の期間のみに二月堂に迎えられる、つまり「修二会専用の本尊」だったのではないかという説がある。
    12世紀の文書には小観音が厨子に入ったまま「宝蔵」から出され、大観音前に置かれるという記述がある。また鎌倉時代にも「院蔵」から小観音が迎え入れられる記述のある文書もあるという。このことから
    本尊が交代する一連の流れは、小観音がかつて二月堂外から迎え入れられていた名残の行事ではないかと推測されている。

    小観音が修二会用に迎え入れられていた本尊とすれば、ではそれぞれの観音はいつから二月堂に常置されていたのかという疑問もわく。
    1140年頃成立したという文書には小観音が大観音の前に置かれるという記録から、大観音はこのころには本尊になっていたと推測されている。しかし「いつから」というのはいまのところ不明であるという。
    当初の二月堂には、局や礼堂がなく、今の内陣と同じサイズの小さなお堂があったことがわかっている。礼堂ができたのが平安期、礼拝される対象があってこその礼堂なのでこのころには何かしらの本尊があったであろうことは推測されている。
    では、小観音はどうか。
    修二会に参籠する練行衆が記録し書き継がれている『練行衆日記』の1148年2月5日の項に次のような記事があるという。
    「(略)、至第五日走時於仏像本師観音御宝殿打敷也、(略)」
    (2月5日の「走り」の際に練行衆のひとりが小観音の厨子を「打敷」いた)
    印蔵から小観音を移していたのは2月7日。しかしこの2月5日の時点で二月堂内陣に小観音の厨子があるということは、この時期には小観音が二月堂に常置されていたと思われる。小観音の常置は1148年より以前と推定できる。
    また小観音のことを記したと思われる文書の存在が東大寺の目録に記録されている。文書の存在は確認できていないということだが、「印蔵銅仏沙汰」という文書のタイトルによるとどうやら1129年に印蔵の観音、つまり小観音に何らかの事件があったらしい。
    しかしながらこれにあたるようなできごとは『練行衆日記』に見当たらず、しかも1130年の部分だけ記述がないのだという。
    このときに小観音が二月堂に常置されるようになったなにかの事情があるのではないかと言われている。

なぜに「修二会」は魅力的なのか私的考察感想

  1. 独特の用語
    ふりがながなくては正確に読めない語が修二会にはたくさん登場する。
    読めても意味がわからなかったり、いつのどの場面のことを指しているのかわからない語もある。
    初めて映像で見た時にはただただ驚きしかなかったが、何回か見たり現地に足を運ぶと、目の前で行われていることは何のために何の意味を持って行われているのかとても気になってくる。
    そこで何冊か本を繰ってみたりググってみるが、用語そのものが多く、解説にさらに別の用語が混じると言ったぐあいで、ずるずると沼に落ちるようにハマっていく。
    その難解さは修二会の世界感ならではで、謎を解くように好奇心をそそられる。

  2. 重層的な世界観
    シルクロードの都市・敦煌の莫高窟で発見された文書には、二月堂の修二会の「走り」のように本尊を囲んで走るという行が記録されていたという。
    ところが現在の中国はじめ東アジア一帯には、このような行は東大寺の修二会以外には見られないのだそう。
    もはや大陸には残っていない祈りの形が、遠く離れた極東の島国に伝わり残されていた可能性があることが長らく指摘されてきている。もしもそのようであったとしたら、修二会はタイムカプセルのように大陸の祈りの形を残していたということになる。

    修二会の行の中には仏教以外の祭祀や芸能の濃厚な気配がする。
    神名帳には神道の、本尊の荘厳に用いられる糊こぼしをはじめとした造花、供えられる「壇供」と呼ばれる餅など民間習俗との関わりも指摘されている。
    そう思うと達陀で散らされる炎、聖なる水、「火天」と「水天」の存在は、三遠南信で見た「花祭」や「霜月祭り」に通じるところもあるように見えるし、撒かれるハゼには霜月祭りで見たかす舞の様子も重なる。
    多様な要素が修二会の中に収まっていることに、そして維持されていることにも驚く。

    戸帳の向こう、ゆらめく炎にうつる練行衆のお姿。
    音の波が美しく重なり合う声明。
    厳格な作法で構成され、完成された法会空間。
    次はもうちょっと深い位置から拝観できる気がする。
    また奈良に行きたいなあ。

市内の和菓子店では修二会にちなんだ和菓子が販売されている。
食べくらべも楽しい。
こちらは「開山良弁椿」と「閼伽水」(鶴屋徳満)
「糊こぼし」の椿と「水取り」にちなんで。
(2024年3月9日)

主な参考文献
『お水取り』奈良国立博物館 令和2年
『東大寺修二会 お水取りの声明』 東大寺 2022年改訂3刷
『論集 東大寺二月堂ー修二会の伝統とその思想』 東大寺 2010年
『令和6年 東大寺二月堂修二会』 ホテル尾花
『月刊大和路ならら2022年2月号』なら文化交流機構   他